朝倉氏一乗谷庭園

―一乗谷朝倉氏庭園―
いちじょうだにあさくらしていえん

福井県福井市
特別名勝 1991年指定


 福井市の中心部から南東へおよそ10km。福井平野を見渡す山の間に走る一乗谷。そこは戦国時代、越前国やその周辺を支配していた大名である朝倉氏が、躍進期から滅亡までの百年以上もの間に拠点としていた場所である。一乗谷は一乗谷城の城下町として朝倉氏の興隆と共に発展し、最盛期には日本有数の城郭都市としてその名を馳せた。また応仁の乱を逃れるため京都から一乗谷に移ってきた公家や僧侶、文化人たちが華やかな京文化をもたらし、一乗谷は北ノ京と称されるまでに至った。一乗谷朝倉氏庭園は、その一乗谷の中心である居館群の跡地に残る、朝倉氏の忘れ形見である。




特別名勝に指定された4庭園の一つ、義景館跡庭園
長きに渡り地中に埋もれていたが、昭和42年に発掘された

 織田信長により朝倉氏が滅ぼされると一乗谷もまた焼き払われ、その城下町は土の中に眠ることとなった。近年の発掘調査によって遺構が次々と明らかとなる中、特に朝倉氏の居館群からは、当時のままの庭園が複数発見されている。そのうち湯殿跡庭園、諏訪館跡庭園、南陽寺跡庭園は石積みが地表に露出していたため昔からその存在を知られており、昭和5年には名勝に指定されていた。その3庭園に加え、昭和42(1967)年の発掘調査で新たに発見された義景館跡庭園を含む4庭園が、戦国大名朝倉氏の文化を示す貴重な遺構として1991年、特別名勝に指定された。




義景館跡庭園(右奥)と、日本最古の花壇遺構(左)
左上から石組にかけて、庭園に水を引く為の導水路も見える

 周囲を堀と土塁に守られ、後世に建てられた唐門(江戸時代中期再建)を入口に備える義景館跡は、一乗谷朝倉氏遺跡のシンボル的存在と言える遺跡である。その義景館跡の最も奥まったところにあるこぢんまりとした庭園が、義景館跡庭園である。これは、後に室町幕府最後の将軍となる足利義昭が一乗谷を訪問した永禄11(1568)年、朝倉義景が義昭を迎えるため作庭したとされる。この庭園は茶室から眺める池泉観賞式の庭園であり、斜面に沿って石組が組まれ、池泉を設けている。水の供給は斜面上部からで、つづら折りの導水路を通って斜面を流れ、滝石組を経て池へと流れる仕組であった。




かつては水を湛えていた、湯殿跡庭園の池泉

 義景館跡裏の斜面を登った高台には湯殿と呼ばれる館の跡があり、そこにも庭園が残されている。これは廻遊式林泉の庭園で、複雑に入り組んだ形状の池泉と、周囲に立つ荒々しい巨石の石組が特徴である。それらの特徴より、この庭園は他のそれよりも古い7代朝倉孝景の時代に作られたものではないかと考えられているが、正確なことは分かっていない。なお、この庭園のある湯殿についても文献は無く、詳細は不明のままだ。湯殿跡庭園の正面には釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩を表した三尊石組が置かれており、左側には滝石組が組まれて、また鶴石と思わしき中島も池内に配されている。




枝葉を伸ばすカエデの古木が印象的な諏訪館跡庭園

 湯殿跡から空堀を隔てた場所にある中御殿跡を超え、さらに進んだところにあるのが諏訪館跡だ。諏訪館は朝倉義景が側室の小少将(こしょうしょう)の為に建てた館と伝わっており、上下二段の構成を持つ廻遊式林泉庭園となっている。4庭園の中で最も規模が大きく、この時代の形式に則った作りの庭園である。川から取水した水は暗渠の導水路によって湧泉石組へと引かれ、小規模な滝石組を通って下段へと落ちる。下段には高さ約4m以上もの立石を使った大規模な滝組があり、またその周囲には義景館跡庭園に似た手法の石組が立ち並び、中央にはカエデの古木がそれらを覆うように枝を伸ばしている。




広々とした寺院跡にポツンと残る、南陽寺跡庭園の石組

 朝倉氏は神仏に篤く、一乗谷には数多くの寺社が存在していた。義景館に程近い、高台に建っていたのは南陽寺だ。3代朝倉氏景の妻である天心清祐大姉が建立し、朝倉氏当主の娘が代々入る尼寺としてその庇護を受けていた。南陽寺跡に残る庭園は、他の庭園と比べ小規模ではあるものの、三段の滝石組を始めとした迫力ある石組を見ることができる。この庭園も義景館跡庭園と同様、足利義昭の御成に備えて作ったものとされ、義景は義昭をこの庭園に招いて歌会を催したという。現在南陽寺跡には、この時二人が詠んだ歌を刻んだ石碑が立てられている。

2009年06月訪問




【アクセス】

JR越美北線「一乗谷駅」より徒歩約30分。

【拝観情報】

見学自由。

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