浄瑠璃寺庭園

―浄瑠璃寺庭園―
じょうるりじていえん

京都府木津川市
特別名勝 1985年指定


 奈良県と隣接する京都府の南端部、古都奈良の中枢から若草山を越えたその北側に、木津川市加茂町の当尾(とおの)地区はある。当尾は隣接する奈良の影響を強く受け、古くより数多くの仏教寺院が建立されてきた。浄瑠璃寺もまたそのような当尾の仏教寺院であり、平安時代の末期には興福寺一条院の別所(僧侶が修行をする為に離れた場所に建てた寺院)として伽藍の整備がなされた。浄瑠璃寺には今もなお、建物を含めた庭園全体で浄土思想の世界を表現した浄土式庭園が造営当時のままに残されており、国の史跡および特別名勝に指定されている。




浄瑠璃寺西側から本堂を臨む

 浄瑠璃寺に伝わる14世紀の古文書、浄瑠璃寺流記事(じょうるりじるきのこと、重要文化財)によると、浄瑠璃寺の興りは永承2年(1047年)、当麻の僧侶である義明上人が阿知山大夫重頼という地元豪族の支援を得てこの地に小堂を建て、薬師如来像を本尊として祀ったことに始まるという。また創建から60年後の嘉承2年(1107年)、本尊の薬師如来像を西堂に移したと同書に記されているが、この西堂は現在の本堂ではなく、それがどのような建物であったかなど詳しい事は一切分かっていない。今の本堂が建てられたのは、それからさらに50年後、保元2年(1157年)の事である。




本堂と共に国宝に指定されている、浄瑠璃寺三重塔

 保元2年(1157年)、興福寺の権別当を勤めた一条院の恵信(えしん)が、浄瑠璃寺を一条院の御祈所と定め、それに伴い浄瑠璃寺の伽藍を大々的に整備した。恵信は当時流行していた浄土思想に基いて庭園を整備し、また観無量寿経に書かれている九品往生(くほんおうじょう)の教えより、九体阿弥陀堂という横長の本堂を池の西側に建て、そこに九体の阿弥陀如来坐像を安置して新たな本尊とした。これが現在の本堂および本尊である。そしてその後の治承2年(1178年)、京都は一条大宮の寺院から三重塔が移築され、そこにかつての本尊である薬師如来が祀られ、今に見られる伽藍が完成した。




宝池に浮かぶ小島
右手前には立石組が、奥には弁財天を祀る祠が鎮座している

 浄瑠璃寺庭園の中央にある宝池は、梵字の阿字をかたどっていると伝わる。宝池の東側には薬師如来坐像を安置する三重塔が配され、その対岸である西側には本尊の九体阿弥陀如来を安置する本堂が置かれているが、これは薬師如来を教主とする浄瑠璃浄土(東方浄土)と、阿弥陀如来が住むとされる極楽浄土(西方浄土)の世界を表現しており、参拝者はまず日出づる東方の三重塔前で薬師如来に現世の救済を願い、そしてそこから日沈む西方の本堂を仰ぎ見て、理想世界である西方浄土への救済を願ったのである。




本堂前の灯篭より、立石を経て三重塔へと至る

 三重塔の前、そして本堂の前には、それぞれ一基ずつ石灯籠が置かれている。三重塔前のものには貞治5年(1366年)という銘を確認することができることから、これらの石灯籠は南北朝時代のものであることが分かり、重要文化財に指定されている。また、宝池の中心には弁財天を祀る島が浮かんでおり、そしてその島の先端には立石が配されているのだが、この立石は二基の石灯籠を結ぶその直線状に位置しているという。これら浄瑠璃寺の庭園は、ただ唯一現存する九体阿弥陀仏を初め、平安時代後期に盛んに作られた浄土式庭園がそのままに残る希少な例として、非常に貴重なものである。




当尾で最も有名な石仏「笑い仏」

 当尾の里は、数多くの石仏が鎮座していることでも有名である。浄瑠璃寺から岩船寺に至るその道すがらやその周囲には、様々な表情の石仏が数多く鎮座している。これらの石仏は、当尾が浄土信仰で栄えていた鎌倉時代に刻まれたものである。世俗化した奈良仏教に嫌気が差した僧侶たちは、当尾の地に庵を構えて修行を行い、その傍らで地元民に仏教の教えを説いた。それにより民間の信仰心が高まり、集まった浄財によって石仏は作られた。なお、特に有名な「笑い仏」を刻んだのは、固い花崗岩の彫刻技術を日本に伝えた南宋の石工、伊行末(いのゆきすえ)の孫、伊末行(いのすえゆき)であるとされる。

2009年12月訪問




【アクセス】

JR関西本線「奈良駅」より奈良交通バス「浄瑠璃寺行き」で約15分、「浄瑠璃寺前」バス停下車すぐ。
JR関西本線「加茂駅」より奈良交通バス「加茂山の家行き」で約20分、「浄瑠璃寺前」バス停下車すぐ。

【拝観情報】

拝観料300円、拝観時間は9時〜17時(12月〜2月は10時〜16時)。

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