橿原市今井町

―橿原市今井町―
かしはらしいまいちょう

奈良県橿原市
重要伝統的建造物群保存地区 1993年選定 約17.4ヘクタール


 奈良盆地南部、橿原市の中心部からやや外れた位置に広がる今井町。そこに一歩足を踏み入れると、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような光景が目に飛び込んでくる。元は中世荘園の環濠集落(防衛の為に周囲を濠で囲んだ集落)であった土地に、一向衆門徒が作り上げた寺内町を起源に持つ今井町は、安土桃山時代から江戸時代にかけて大和国随一の商家町として発展し、多大なる富を蓄えた。明治維新による富豪の消滅、そして経済の中心が鉄道の駅周辺に移った事により商家町としての機能は失われたものの、そこには今もなお江戸時代に建造された重厚な商家建築が極めて高密度に分布しており、日本最高レベルの町並みを目にする事ができる。




今井町の中心的存在である称念寺
その本堂は江戸時代初期の建造で、重要文化財に指定されている

 鎌倉時代に親鸞(しんらん)が開いた浄土真宗。その総本山である本願寺は、戦国時代には大名に匹敵する力を有し、また一向衆と呼ばれる浄土真宗の信徒たちは、各地に自分たちの町を築いて自衛した。今井町もまたそのうちの一つ、本願寺の僧侶、今井兵部(いまいひょうぶ)によって天文年間(1532〜1555年)に築かれた一向宗の寺内町である。その後、本願寺は反織田信長の勢力で結成された信長包囲網に参加したものの、信長はこれらを打ち破り本願寺にも進攻。今井町もまた武装を強化して筒井順慶(つついじゅんけい)率いる織田軍と半年に渡り戦ったが、堺の豪商である津田宗及(つだそうぎゅう)や明智光秀の取り成しにより、自治権を認める事を条件に降伏した。




江戸時代中期に建てられた旧米谷家住宅(重要文化財)

 その後、今井町は徹底した自治の下に自由商業都市として栄え、堺との活発な交流も相まって「海の堺、陸の今井」と称される程の商家町に成長した。各地の文化人との交流も盛んに行われ、豊かな商人たちは文化的な教養も身に付けていったという。その繁栄は江戸時代になっても変わる事が無く、寛永11年(1634年)に発効された今井町の独自通貨「今井札」は全国で通用したという。延宝7年(1679年)になると、今井町は天領(幕府の直轄地)として代官所が設けられたものの、その財力は幕府にも一目おかれており、惣年寄が行政権と司法権を有する自治が特別に認められた。元禄年間には「大和の金は今井に七分」という言葉もでき、その後も今井町の経済力は長く保たれていく。




白壁が迫る今井町の裏路地

 今井町を守ってきた人々の努力は驚くべきもので、その町割は今井兵部が今井町を築いた中世の頃より変わっていないという。東西600メートル、南北310メートルの範囲に広がる今井町は、一向衆の拠点である称念寺(しょうねんじ)を中心とし、盤目状に路地が配されている。それらの路地には食い違いや突き当りが多いが、これは町の防衛の為にわざと見通しを利きにくくしているのである。今井町に建ち並ぶ家屋はおよそ650棟。そのうちの504棟が伝統的建造物であり、7割が江戸時代のものである。また重要文化財に指定されている町家も8件(江戸時代初期建造の称念寺本堂を合わせると9件)であり、これらの数は他の重要伝統的建造物群保存地区に比べて突出している。




江戸時代後期の造酒屋である河合家住宅(重要文化財)

 今井町の町屋は切妻屋根で平入のものが多く、本瓦葺と桟瓦葺が混在している。壁は白漆喰で塗り込められており、非常に重厚な印象だ。いずれの家も一階部分には格子を入れるが、細い格子が連なる京町屋とは異なり、一本一本が非常に太い堅固で実用的なものとなっている。二階部分には様々な意匠の虫籠窓(むしこまど)が開き、中には家紋をあしらったものもある。また一階の庇下は内部に取り込まれ、その為に玄関の入口がやや後退しているのが特徴的だ。内部はトオリニワ(表から裏へと通り抜ける土間)を設け、二列に三室を並べた六間取りが多い。それぞれ手前からミセノマ、ナカノマ、ダイドコロ、それらの上手をミセオク、ナンド、ブツマとするのが一般的だ。




今井町の西端に位置する今西家住宅(重要文化財)
手前にはかつて町を取り囲んでいた環濠が復元されている

 今井町の西端に位置する今西家住宅には慶安3年(1650年)の棟札が残されており、建立年代がはっきりしている江戸時代初期の民家として貴重である。いくつもの棟が重なっているかのように見えるその独特な屋根は「八つ棟造」と称され、まるで城郭建築のようなたたずまいを見せる。この今西家はかつて惣年寄の筆頭を担っていた家であり、その主屋には江戸時代の法廷であるお白洲や牢獄が備わっている。町の北側にある上田家もまた、今西家とともに今井町の惣年寄を勤めていた家である。その主屋は入母屋造の厨子二階建て。延享元年(1744年)頃の建造と考えられている。上田家はその屋号を壷屋というが、屋根に乗る鬼瓦のデザインにも壷があしらわれているのが面白い。

2007年01月訪問
2010年12月再訪問




【アクセス】

近鉄「大和八木駅」より徒歩約15分。
近鉄橿原線「八木西口駅」より徒歩約5分。
JR桜井線「畝傍駅」より徒歩約10分。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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