薩摩川内市入来麓

―薩摩川内市入来麓―
さつませんだいしいりきふもと

鹿児島県薩摩川内市
重要伝統的建造物群保存地区 2003年選定 約19.2ヘクタール


 鹿児島県北西部の山間部、川内川(せんだいがわ)の支流である樋脇川(ひわきがわ)が流れる入来の地には、中世に築かれた山城の清色城(きよしきじょう)が存在する。シラス台地を掘り切った空堀が見事な城山の東麓には、島津家が安土桃山時代から江戸時代にかけて領内に置いた計113ヶ所にも及ぶ外城(とじょう)のひとつ、入来麓の武家町が広がっている。大きく蛇行した樋脇川を天然の濠として利用し、背後を城山によって守られた東西約400メートル、南北約500メートルの範囲には、中世から残る湾曲した街路と、近世に築かれた整然とした街路が混在しており、玉石垣や生垣の緑豊かな景観と相まって、周囲の山々と調和した美しい武家町の景観を作り出している。




緩やかにカーブする「赤城之馬場(あかっさぁんばば)」の町並み
直線的ではない、中世からの地割を残す通りである

 清色城は有力国人である入来院(いりきいん)氏が本拠地としていた中世山城である。「三国名勝図会」によると、12世紀末に入来院頼宗(いりきいんよりむね)が築いたとあるが、「雲遊雑記伝」には、宝治元年(1247年)に地頭となった入来氏の祖、渋谷定心(しぶやじょうしん)が築いたとあり定かではない。南北朝時代に入ると入来院氏は南朝方に付き、北朝方の島津氏と戦った。清色城は島津氏に包囲されて入来院氏は降伏、以降は島津氏と協力や再対立を繰り返し、永禄12年(1569年)にはついに完全降伏して島津家の家臣となる。この時、入来氏は大隅国の湯之尾へと移封されたが、江戸時代に入ると再び入来の地に移され、以降は島津氏の重臣として明治維新を迎えることとなった。




地頭館跡の前には、濠とお仮屋馬場(おかいやんばば)が設けられている

 入来における武家町の歴史は、入来院氏とその家臣が屋敷を築いたことに始まった。慶長4年(1599年)には、島津義久(しまづよしひさ)の家老を務めた平田増宗(ひらたますむね)が地頭として赴任し、麓(外城制における郷士の集住地)の整備に着手する。増宗は城山の裾に地頭館を置き、その前面に武家町を再構築した。故に、入来麓の北側は入来院氏からの由来を持つ中世の武家町、南側は近世に再整備された武家町となっており、中世から近世にかけての地割が重層して混在するのが特徴だ。なお、かつての地頭館跡は現在入来小学校となっており、石垣と土塁によって整地されたその敷地の手前には、水を湛えた濠とお仮屋馬場と呼ばれる広場が存在する。




中ノ馬場(なかんばば)に面して構えられた入来院家の茅葺門

 入来麓の武家町は、南北に通る旧国道の「中ノ馬場」を目抜き通りとし、それに直交して「船瀬馬場(ふなせんばば)」「上ノ馬場(かんのばば)」「十文字馬場(じゅもしばば)」「犬ノ馬場(いんのばば)」といった街路が東西に通されている。いずれの通りも樋脇川の川原石で築かれた玉石垣が連なっており、その上には食用にできるイヌマキや茶を植えて生垣としている。街路に面して腕木門や石柱門といった屋敷の表門が開かれているが、すぐ内側で鉤折れとなり内部をうかがうことはできない。また街路の突き当りには、中国由来の魔除けである「石敢當(せっかんとう)」が祀られている。中には元文4年(1739年)や天明元年(1781年)など江戸時代中期に遡るものもあり、貴重である。




かつて船着場があった樋脇川沿い、船瀬馬場の町並み

 入来麓南端に位置する船瀬はかつての船着場跡である。入来の地は古代より薩摩国府(現在の薩摩川内国分寺町付近)と大隅国府(現在の霧島市国分府中付近)を結ぶ交通の要衝であり、船瀬には舟便の発着所が設けられていた。船瀬を管理していた役人の子孫は「船瀬氏」と名乗り、入来院氏からも「船瀬殿(ふなせどん)」と称されるほどの名家であったという。その力を誇示するかのように、船瀬の西に位置する「船瀬殿墓」には鎌倉時代から戦国時代にかけての石塔が百基近く並んでいる。今でこそ樋脇川には立派な橋が架けられているが、かつては橋など存在せず、郷士たちは船で入来麓に出入りしていた。そのことからも、入来における船瀬の重要性が理解できる。




明治6年(1873年)頃に建てられた旧増田家住宅の主屋
入来麓の伝統的な様式であり、附属屋と共に重要文化財に指定された

 入来麓の屋敷構えは、接客に用いられる「おもて」と生活空間として使われる「なかえ」の二棟を街路に直交して建てるのが一般的だ。「おもて」は街路に近い表側に位置し、床と棚を持つ座敷を構えている。棚には障子窓が設けられており、それを開けると街路を行く人々の頭が見えて往来の様子がうかがえるといった、武家屋敷らしい防衛のための工夫を見ることができる。「なかえ」は「おもて」の裏側に位置しており、炊事を行う土間と食事をする床上部分から成る。外城の郷士は半士半農であり、平常時は農作業を行って生活していた。「なかえ」の側には農耕用の馬などを飼う「なや」が置かれ、また家財道具などを納める土蔵や石蔵などの附属屋も建てられている。

2014年10月訪問




【アクセス】

JR鹿児島本線「鹿児島駅」よりJR九州バス「北薩線本線」で約1時間20分、「入来麓バス停」下車すぐ。

JR鹿児島本線「川内駅」より市内横断シャトルバス「樋脇・入来コース」約55分、「入来支所前バス停」下車すぐ(1日3本につき時刻表を要確認)。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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