長野市戸隠

―長野市戸隠―
ながのしとがくし

長野県長野市
重要伝統的建造物群保存地区 2017年選定 約73.3ヘクタール


 善光寺平の北方に聳える北信五岳のうちのひとつにして、古来より修験道の霊場として知られてきた戸隠山。その信仰の中核を担う戸隠神社は、戸隠山の山腹に鎮座する「奥社(おくしゃ)」、および戸隠高原北端に境内を構える「中社(ちゅうしゃ)」と「宝光社(ほうこうしゃ)」の三社から構成されている。そのうち「中社」と「宝光社」の門前には数多くの宿坊が建ち並んでおり、またその周囲には在家と呼ばれる農家や職人たちの住居が散在する。その地割は江戸時代からほとんど変わっておらず、特徴的な信仰景観を目にすることができることから、この二社の境内と門前町、それと両社を繋ぐ古道を含む範囲が、宿坊群としては初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。




戸隠神社「中社」の拝殿
昭和17年(1942年)の火災後、昭和31年(1956年)に再建された

 神話の時代、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸に隠れた際に、天手力雄命(たじからをのみこと)が投げ飛ばした岩戸が飛来したとされる戸隠山。その霊場としての歴史は、平安時代の嘉祥2年(849年)に学問という行者が入山したことに始まるという。平安時代末期には神仏習合の戸隠山顕光寺(けんこうじ)として都にまでその名が轟くようになり、比叡山や高野山と並び「戸隠十三谷三千坊」と称されていた。戦国時代には越後国の上杉家と甲斐国の武田家による板挟みに遭い、一時期は水内郡小川村に移転するものの、江戸時代には徳川家の菩提寺である寛永寺の末寺として組織が整備され、領土が与えられるなど幕府の庇護を受けて存続していった。




宝光社と中社を繋ぐ古道「戸隠道」
途中には宝光社創建の起源である「伏拝(ふしおがみ)」が存在する

 戸隠山顕光寺では、鎌倉時代後期には既に現在の三社に通じる「奥院」「中院」「宝光院」の三院が成立していたとされる。いずれも参道に仁王門を構え、その内側に衆徒たちの住坊が存在した。元禄10年(1697年)の記録によると、奥院12院、中院24院、宝光院17院が存在したとされ、また正徳期(1711〜1716年)には奥院衆徒の里坊が中院と宝光院に築かれている。天明2年(1782年)になると中院と宝光院の対立により宝光院17院が追放され、その跡地に中院から12院が移転、各12院という構成に変化した。衆徒たちは檀家を有して祈祷を行い、また参拝者を住坊に泊めていた。江戸時代後期になると衆徒の廻壇活動によって農業や水の神としての戸隠信仰が民衆へと普及し、各地に戸隠講が組織される。檀家の増加に伴い、住坊は宿坊としての機能が拡大していった。




中社地区の「横大門通り」に門を構える宿坊

 明治元年(1868年)の神仏分離令および明治5年(1872年)の修験禁止令により、顕光寺は廃止となって戸隠神社に改められた。仁王門などの仏教的要素はことごとく排除され、三院は現在の三社に再編成されることとなる。奥院の衆徒は中社や宝光社の里坊へと移り住み、宿坊は中社21院、宝光社15院という構成になった。どちらの門前町も、社殿へと上る主要参道の「大門通り」を中心とし、鳥居の前から左右に伸びる「横大門通り」など等高線に沿った複数の路地に宿坊の敷地が構えられている。昭和の高度経済成長期には急激に観光地化が進んだものの、今もなお旅館や民宿として営業している宿坊は数多く、宿坊群としての町並みが今に保たれているのが特徴だ。




宝光社地区にある庭園を備えた宿坊
水路から引いた水で池泉を作り、高山植物を植えている

 宝光社・中社のどちらも南向きの斜面に位置することから、各宿坊は石垣や土坡によって整地し平坦な屋敷地を確保している。敷地の境界には生垣や塀、屋敷林を巡らし、主要道に面して正門を一箇所構えるのが一般的だ。宿坊は主に客殿と庫裏から成り、一列または矩折れに配して一棟にまとめるか、もしくは渡り廊下で接続している。客殿の正面には向拝を付け、その奥の間を仏間(明治以降は神前の間)としている。いずれも寄棟造または入母屋造の茅葺屋根で平入を基本とし、積雪に備える為に「せがい造りで」で軒を深く取っている。近世までは平屋が主であったが、明治に入ると宿泊客の増加により屋根裏を利用した二階を設けるようになり、明治後半以降は総二階建てが主流となった。




中社地区の仁王門跡外側に連なる在家の主屋

 仁王門外側の土地は江戸時代に水田が開墾され、「御門前」と呼ばれる人々が住居を構えていた。御門前は農業の他、竹や薪木などの採集により生計を立て、雑役や伝馬を担っていたという。明治時代に入ると門前の農民や職人は「在家」と呼ばれるようになり、引き続き農業をはじめ、竹細工や畳糸の製造、炭焼き等を営んでいた。在家の主屋は宿坊と共通している点が多いものの、宿坊の客殿は六間取りを基本とするのに対し、在家は古いものから広間型三間取、四間取、食い違い四間取となっている。かつては農家には縁側を付けることが許されていなかったものの、近代以降は作物の取り入れや干場、竹細工の材料置き場などとして座敷の前に内縁を設けるようになった。

2017年08月訪問




【アクセス】

JR信越本線「長野駅」からアルピコ交通バス「ループ橋経由戸隠線」もしくは「県道戸隠線」で約60〜80分、「戸隠宝光社」または「戸隠中社」で下車すぐ。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。