宮津天橋立の文化的景観

―宮津天橋立の文化的景観―
みやづあまのはしだてのぶんかてきけいかん

京都府宮津市
重要文化的景観 2014年選定


 京都府の最北端、丹後半島の南東に位置する宮津湾。その西側には砂礫の堆積によって形成された砂州が形成されており、宮津湾と阿蘇海を一直線に隔てている。その他に類を見ない特異な地形は「天橋立」と称され、海岸線から一気に立ち昇る周囲の険しい山々と相まって、古くより信仰や観光の対象として知られてきた。その周辺地域は古代における丹後国の中心地として今もなお往時の名残を留めており、また宮津湾や阿蘇海の沿岸で営まれてきた農漁業による土地利用の在り方を示す景観が良好に残されていることから、「天橋立」を中心として、北岸の「府中地区」、南岸の「文珠地区」、および阿蘇海の水面域を含む約1255.1ヘクタールの範囲が国の重要文化的景観に選定されている。




阿蘇海の北岸に位置する「丹後国分寺跡」
現在に残る礎石は中世に再建された時のものである

 天橋立北側の「府中地区」は古代の丹後国府に比定されており、その西側に位置する丹後国分寺は中世・近世に場所を移しながらも今もなお法燈を守り続けている。周囲には丹後国の一ノ宮であり伊勢神宮の元宮であるとされる「籠(この)神社」や、慶雲元年(704年)の創建と伝わる「成相寺(なりあいじ)」などの古社名刹も多く、府中地区が古代より丹後国の中心地であったことが分かる。その後、室町時代の明徳3年(1392年)には丹後守護職に任命された一色氏により町が整備され、明応10年(1501年)から永正3年(1506年)頃に雪舟が描いた「天橋立図」(国宝)にも成相山麓から江尻にかけて家屋が密集する様子が描かれてるなど、中世を通じて栄えていたことがうかがえる。




成相寺への参道である「本坂道」とその道端に残る石仏
貝原益軒はこの道の途中で天橋立を眺望した

 江戸時代に入ると宮津湾の最奥に宮津城が築かれ都市機能は移ったものの、その城下町は天橋立参詣の拠点として機能することになる。江戸時代中期の「和歌浦・天橋立図屏風」には天橋立を行き交う人々の姿が描かれており、天橋立が宮津から府中へ至る参詣道として使われていたことが分かる。宮津湾や阿蘇海には多数の舟が浮かんでおり、陸上交通のみならず海上交通も整備されていた。寛永20年(1643年)には儒学者の林鵞峰(はやしがほう)が天橋立を訪れ『日本国事跡考』を著し、また元禄2年(1689年)には同じく儒学者の貝原益軒(かいばらえっけん)が『己巳紀行(きしきこう)』に「日本の三景の一」と記すなど、この頃より天橋立は日本三景のひとつに数えられるようになった。




国分集落と小松集落の間に広がる水田に鎮座する若宮神社

 阿蘇海と成相山の間に位置する段丘上では、かつての条里制に基づく地割の農地が広がっており、現在は主に水田が営まれている。国分寺から籠神社の間には、旧道に沿って「国分」「小松」「中野」の三つの農村集落が形成され、緩やかな傾斜地に石積を築いて屋敷地を造成し、主屋や納屋、作業場であるニワなどから成る農家が連続している。通りには石積の水路が通されており、各家では洗い物などを行う為の石段「アライバ」を備えている。近代に入ると天橋立の観光地化がより一層進み、大正12年(1923年)には展望台である傘松公園へと至るケーブルカーが大垣集落に整備され、そこから一ノ宮桟橋にかけて土産物屋や旅館などが軒を連ねる観光地としての町並みが形成された。




阿蘇海に面した溝尻集落では今もなお高密度で舟屋が残る

 阿蘇海の沿岸には漁業集落の「溝尻」が存在する。その立地より、国府の港である国府津(こうづ)をルーツに持つと考えられ、籠神社から出土した文治4年(1188年)の銘がある経筒(重要文化財)にも「与謝郡拝師郷(はやしごう)溝尻村」とその名が記されている。阿蘇海ではかつてキンタルイワシ(金樽鰯/金太郎鰯)と呼ばれていたマイワシ漁が盛んであり、江戸時代中期の俳人である蝶夢(ちょうむ)の『橋立秋の記』には「名月や飛び上がる魚も金太郎」とキンダルイワシについて詠まれている。現在も溝尻集落では舟を格納する為の伝統的な舟屋が阿蘇海に面して建ち並んでおり、穏やかな内海ならではの漁村風景を目にすることができる。




文珠水道沿いには「対橋楼」や「千歳楼」などの老舗旅館が建ち並ぶ
背後の山に見える建物は「玄妙庵」だ

 天橋立の南側に位置する「文珠地区」は、日本三文珠のひとつに数えられている「智恩寺」とその門前町からなる地域である。江戸時代には対岸の天橋立へ渡し舟が出るなど府中地区の玄関口としての機能も担っていた。かつては沼地が広がっており陸地が狭かったことから集落は山裾に形成され、山際にまで切り込んだ入江に往来や漁に使う舟を繋留していた。現在も「どんぶち」と呼ばれる沼地に入江の痕跡が見られ、舟屋も残っている。明治40年(1907年)の皇太子行啓以降は、海岸や山腹に「対橋楼」「千歳楼」「玄妙庵」などの旅館が築かれ、大正時代に鉄道と道路が整備されると駅前や沿道を中心に市街地化が進むなど、現在まで天橋立観光の拠点として発展してきた。

2007年11月訪問
2017年11月再訪問




【アクセス】

<文珠地区>
京都丹後鉄道宮豊線「天橋立駅」より徒歩約5分。

<府中地区>
京都丹後鉄道宮豊線「天橋立駅」より丹後海陸交通バス「伊根線」で約25分「天橋立元伊勢籠神社」バス停下車すぐ。
京都丹後鉄道宮豊線「天橋立駅」より徒歩約5分、「天橋立桟橋」から観光船で約15分。
京都丹後鉄道宮豊線「天橋立駅」より天橋立を通過して徒歩約60分。

文珠地区、府中地区共にレンタサイクルあり。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

【関連記事】

天橋立(特別名勝)
伊根町伊根浦(重要伝統的建造物群保存地区)

【参考文献】

・月刊文化財 平成26年2月(605号)
・月刊文化財 平成27年2月(617号)
御祭神・御由緒|丹後一宮 元伊勢 籠神社
成相寺について|成相寺
みやづ歴史紀行(第24回)|宮津市
奈良文化財研究所『文化的景観保存計画の概要(III)』