北大東島の燐鉱山由来の文化的景観

―北大東島の燐鉱山由来の文化的景観―
きただいとうじまのりんこうざんゆらいのぶんかてきけいかん

沖縄県島尻郡北大東村
重要文化的景観 2018年選定


 沖縄本島から約360キロメートル東に浮かぶ北大東島。珊瑚礁が隆起してできたドロマイト(海水で変成した石灰岩)の土地に海鳥の糞が化石化してできたグアノ(燐を多く含む物質)が堆積していたことから、大正時代から昭和初期にかけて燐鉱石の採掘が行われていた。島の北西部に位置する西港には燐鉱生産施設が現存しており、「北大東島燐鉱山遺跡」として国の史跡に指定されている。また西港に隣接する集落では燐鉱山運営会社が築いた社宅や厚生福祉施設など生活関連施設が住宅や民宿として利用されているなど、燐鉱業に由来を持つ景観が今もなお残ることから、燐鉱山遺跡と集落、およびその周囲に広がる採掘場跡や畑地を含む162.4haの範囲が国の重要文化的景観に選定されている。




北大東島の最高峰である黄金山から北側を望む
かつて手前には採掘場が、奥には耕夫村の下坂村が存在した

 北大東島・南大東島・沖大東島から成る大東諸島は、周囲を険しい断崖によって囲まれた地形であることから長らく無人島であった。明治に入ると八丈島の実業家である玉置半右衛門(たまおきはんえもん)が開拓団を派遣。明治33年(1900年)より南大東島の開拓が進められ、ついで明治36年(1903年)には北大東島の開拓が始められた。当時は化学肥料の原料として燐鉱石が世界的に注目されており、太平洋の島嶼においてヨーロッパ諸国による燐鉱石の採掘が進められていた。そのような中、沖大東島で燐鉱石の鉱床が発見される。それに刺激されて北大東島でも明治43年(1910年)に燐鉱石の試掘が行われたのだが、技術面の未熟さにより事業化には至らなかった。




西港の周囲には旧東洋製糖北大東出張所などドロマイトで築かれた石造の建物が並ぶ

 大正5年(1916年)に南北大東島の経営権を東洋製糖株式会社が取得すると、第一次世界大戦によって輸入が途絶えた燐鉱石の価格高騰を受けて、大正7年(1918年)に燐鉱業の計画に着手。翌年には施設がほぼ完成し、燐鉱石の採掘が始められた。北大東島の燐鉱石はアルミナ鉄が多く含まれており化学肥料の原料には適していなかったものの、改良が進むにつれて売り上げは伸びていった。また戦闘機などに使うアルミニウムの原料としても需要が高まっていく。燐鉱石の産出量は第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)にピークを迎え、戦後も米軍により採掘が続けられたものの、掘削機械の導入によって品質の低下を招き、また鉱床も枯渇したことから昭和25年(1950年)に閉山した。




複雑な形状の窪地が見られる玉置平の採掘場跡

 北大東島における燐鉱石の採掘は、黄金山および北西端の黒部岬の周囲で行われていた。現在、採掘場跡の大部分は埋め戻されており、「リンコージ」と呼ばれるサトウキビ畑として利用されている。唯一、黄金山の西麓に位置する玉置平には当時のまま手付かずに残る採掘場跡があり、露天掘りによって造成された階段状の窪地が入り組む複雑な地形を目にすることができる。垂直抗も確認されており、中央部にはトロッコを通していた軌道やトンネルも現存する。玉置平から西港にかけてはかつてトロッコが通されており、その軌道に沿って日干しで燐鉱石を乾燥させていた「日乾堆積場跡」が残り、現在も閉山後に放置されたままの燐鉱石露頭が見られる。




石造壁体と四本のトロッコトンネルが残る「燐鉱石貯蔵庫」

 西港には生産施設が集中しており、燐鉱石を熱風で乾燥させる回転式乾燥機を設置していた「ドライヤー建屋跡」、「火力乾燥場跡」および「水タンク跡」、出荷前の燐鉱石を集約的に蓄えていた「燐鉱石貯蔵庫跡」(国登録有形文化財)、長いシュートで燐鉱石を艀(はしけ)に積み出していたことから「象の鼻」とも呼ばれていた「積荷桟橋跡」(国登録有形文化財)、物資の荷揚げを行っていた「荷上げ場跡」、岩盤をスロープ状に掘り込み海上の艀を引き揚げていた「船揚げ場跡」や、艀を収容する「艀倉庫及び造船所跡」、各種の「倉庫跡」や「火薬庫跡」、「発電所跡」などといった、燐生産に関する一連の施設が大規模に残る、他に類を見ない貴重な産業遺産である。




社員倶楽部として宿泊や娯楽等に使われていた「弐六荘」(国登録有形文化財)
現在は民宿の宿泊棟として利用されている

 東洋製糖の社宅群にルーツを持つ集落の建物のうち、最も海の近くに建つのがかつて事務所と売店を収容していた燐鉱事業の拠点施設「旧東洋製糖北大東出張所」(国登録有形文化財)である。近くには戦前に漁師の元締めを務めていた「末吉家住宅」(国登録有形文化財)もあり、台風の強風にも耐え得るドロマイト造の建物や石垣が特徴的な集落景観を作り出している。また社宅群の南側と北側には、かつて耕夫が住んでいた大正村および下坂村がそれぞれ存在した。現在、大正村は西港公園、下坂村はサトウキビ畑となっており集落としては現存しないが、下坂村の一角には「旧下阪浴場」(国登録有形文化財)が残っており、かつての耕夫村の名残をわずかながら今に留めている。

2019年05月訪問




【アクセス】

那覇の泊港(安謝新港の場合もある)から大東海運フェリー「だいとう」で約15時間(北大東島先航の場合。南大東島先航の場合は約17時間)、北大東島の「西港」より徒歩約3分。
那覇空港から琉球エアコミューターで約1時間(月金土日曜日は北大東島直行。火水木曜日は南大東空港経由で約2時間)、「北大東空港」より車で約10分。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

【参考文献】

・月刊文化財 平成29年2月(641号)
・月刊文化財 平成30年9月(660号)