錦川下流域における錦帯橋と岩国城下町の文化的景観

―錦川下流域における錦帯橋と岩国城下町の文化的景観―
にしきがわかりゅういきにおけるきんたいきょうといわくにじょうかまちのぶんかてきけいかん

山口県岩国市
重要文化的景観 2021年選定


 山口県の東端部に位置する岩国市の中心市街地は、慶長5年(1600年)に吉川広家(きっかわひろいえ)が岩国を領すると共に整備されたかつての城下町である。錦川の右岸に聳える城山(横山)に岩国城を構え、その東麓の横山地区には城主の居館である「土居」を中心に重臣の屋敷地が配された。また錦川を挟んだ左岸、岩国山の南麓に広がる岩国地区には中下級家臣の屋敷地や町人地が置かれ、この両地区を錦帯橋が繋いでいた。現在も旧岩国城下町には往時の様相を残すと共に、錦川と密接に関わる特有の町作りが見られることから、「城山」と「横山地区」、「岩国山」と「岩国地区」、および「錦川」と「錦帯橋」を含む約487.3ヘクタールの範囲が国の重要文化的景観に選定された。




城山の山頂に位置する岩国城の天守台
廃城時に破却されており、上半分は復元されたものである

 天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて毛利輝元(もうりてるもと)が西軍の総大将となったことにより毛利家は改易の危機に陥ったものの、その家臣である吉川広家が東軍に与した功績から、広家に与えられるはずだった領地を渡すという形で毛利家は周防と長門の二ヶ国を安堵された。以降、吉川家は江戸時代を通じて幕府から大名として扱われたものの、毛利家の家臣としては微妙な立場となり、新たに毛利家の本拠が置かれた萩から最も離れた防芸国境の岩国に所領を与えられることとなった。広家は山陽道と瀬戸内海を見渡すことができる城山に岩国城を築き、元和元年(1615年)の一国一城令による廃城後は土居を陣屋として政治を行い、明治維新に至るまで代々吉川家が岩国を治めていった。




土居跡(現在の吉香神社)は幅の広い掘割によって囲まれている
掘割は土居の守備を固めるためのみならず、遊水地としても機能していた

 岩国城を築くにあたり、最大の課題は錦川の治水であった。錦川は城山の西側から北麓を回り込むように蛇行し、横山地区と岩国地区を分断しつつ、岩国地区の南端をなぞるように東へと流れて瀬戸内海へと注ぐ。城下町を整備する際、まずは錦川の河床を整備して流路をひとつにまとめ、土手を築いて土地を造成した。横山地区は土居や役所が密集する岩国城の中枢であるが、山と土手によって囲まれていることから内水氾濫が生じやすい土地でもある。故に横山地区の屋敷地は石積でかさ上げしており、浸水時に船を繋留する柱や家財を上げる滑車など水害に対する備えを残している。また土居は背後以外の三方を掘割によって囲まれているが、これは防衛のためのみならず遊水地としても機能していた。




大明小路には武家町の風情を残す屋敷構えが多く残る

 岩国地区では目抜き通りとして「大明小路(だいみょうこうじ)」と呼ばれる路地を東西に通し、その道沿いに中級家臣の屋敷地を配していた。大明小路の南側に並行する二筋には「岩国七町」と呼ばれる町人地、そのさらに南側の三筋は鉄砲組など下級家臣の屋敷地とし、また枡形など軍事的な要所には寺院を置いていた。17世紀半ばになると町は川側へと広がるようになり、当時の土手である「ナカドテ」を取り込むように懸造りの家屋が建ち並ぶ「土手町」が形成された。昭和9年(1934年)からの河川改修により、さらに外側に「カワドテ」と呼ばれる堤防が築造されたことで現在は川と隔てられているが、かつての土手町は川側からも出入りができるなど錦川と密接に関わる生活を営んでいた。




岩国七町の本町筋に位置する國安家住宅
嘉永3年(1850年)頃の建築で国登録の有形文化財である

 現在も岩国地区では東西路を中心に城下町時代の路地が良好に維持されており、各通りごとにかつての土地利用の在り方を目にすることができる。武家町に由来する「大明小路」では立派な門や庭木など風格ある佇まいを見せる家が多く、また比較的敷地が広いことから近代以降に築かれた旅館や商業施設なども見られる。町人地に由来する「岩国七町」は近代以降も商業地として岩国の経済を支えてきた。間口が狭く奥行きが深い短冊形の敷地に切妻屋根平入の二階建て町家が建ち並んでおり、路地に面して一階の軒や下屋が連なる町並み景観を目にすることができる。また伝統的な町家以外にも、各時代ごとの特色を見せる意匠の店舗などが混在しているのも岩国七町の特徴である。




岩国のシンボルである錦帯橋
江戸時代中期より名所として知られ、国の名勝に指定されている

 横山地区と岩国地区を繋ぐ錦帯橋は延宝元年(1673年)に創建され、以降は架け替えを繰り返しながら現在までその姿が維持されてきた。川幅が約200メートルと広くて水深が浅く、渡船にも適した平瀬を選んで築かれており、大手虎口の乗越門と大明小路が錦帯橋によって一直線に接続されるその様相は城下町建設の計画性の高さを示している。錦川が増水しても流されないよう、3連のアーチ橋と2つの桁橋を組み合わせて橋脚を四基に抑えており、橋脚は石造で水圧を逃がすように築き、河床には洗堀を防ぐための護床工を施している。その独特の構造美から江戸時代中期より「木曽の桟(かけはし)」「甲斐の猿橋」と共に三奇橋に数えられ、一大名所として数多くの旅行者を集めてきた。

2009年02月訪問




【アクセス】

JR山陽本線「岩国駅」からいわくにバス「錦帯橋行き」または「新岩国駅行き」で約15分、「錦帯橋」バス停下車すぐ。
JR岩徳線「西岩国駅」から徒歩約20分。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

【参考文献】

・月刊文化財 令和3年9月(696号)
錦川下流域における錦帯橋と岩国城下町の文化的景観|岩国市
城下町地区 街なみ環境整備方針|岩国市