葛飾柴又の文化的景観

―葛飾柴又の文化的景観―
かつしかしばまたのぶんかてきけいかん

東京都葛飾区
重要文化的景観 2018年選定


 東京都葛飾区の東端部、千葉県との境を成す江戸川右岸の微高地に位置する柴又は、古くから人々が住み続けてきた土地であり、また水陸交通の結節点でもあった。江戸時代前期に「帝釈天題経寺(たいしゃくてんだいきょうじ)」が開山し、その後の江戸時代中期に板本尊が発見されると江戸からの参拝客が急増する。近代以降も鉄道網の整備によってますます賑わい、参道沿いに店舗が連なる門前町が形成された。現在も題経寺と門前町を中心に、その周辺部には町の基盤となった農村の様相を伝える景観が残っており、また町の縁辺部には近代以降の大都市近郊における低地開発の歴史を物語る景観が広がることから、約131.2ヘクタールの範囲が国の重要文化的景観に選定されている。




柴又と矢切を結ぶ渡船「矢切の渡し」
現在も手漕ぎの和船で運行が続けられている

 柴又の歴史は古代にまで遡る。柴又八幡神社の境内には古墳時代後期の古墳が造成されており、この頃より定住が始まったとみられる。柴又帝釈天遺跡や古録天遺跡などからは住居の遺構や農耕に関する遺物が発見されており、8世紀には農耕が行われていた。当初は下総国に組み込まれており、養老5年(721年)の『養老五年下総国葛飾郡大嶋郷戸籍』には「嶋俣里」に42戸370人が暮らしているとの記述が見られ、この「嶋俣」が「柴又」に転訛したと考えられている。中世から近世初頭にかけては太日川(ふといがわ、現在の江戸川)の渡河地点であり、水陸交通の結節点および中間点であった。江戸時代初頭には武蔵国へと編入され、武蔵国と下総国を往来する渡船が設置された。




帝釈天板本尊を安置する題経寺の帝釈堂
その前には「瑞龍のマツ」が三方に枝を伸ばしている

 江戸時代前期の寛永6年(1629年)に日蓮宗の寺院である題経寺が創建され、江戸時代中期の安永8年(1779年)にはそれまで行方不明であった帝釈天の板本尊が本堂の棟木上から発見され、これを機に江戸からの参拝者が急増した。明治時代の中期になると、農家の副業として甘味処や煎餅屋、料亭などが門前で営まれるようになる。明治時代の後期には北隣の金町に鉄道が通り、金町と柴又を結ぶ帝釈人車鉄道も営業を始め、これが新たな参詣ルートとなった。大正時代には京成電機鉄道(現在の京成鉄道)によって鉄道網が整備されたことでさらに多くの参拝者で賑わうようになり、昭和初期には参道沿いに店舗が隙間なく建ち並ぶ門前町の景観が見られるようになった。




柴又の南部には農地が残り、点在する旧家と共にかつての農村の様相を伝える

 柴又では古来より長らく農業が営まれてきたが、江戸時代後期の天保6年(1835年)に柴又用水が開削されたことで広く農地が開拓され、農作物の生産量が増加して江戸の食料供給地となっていった。大正末期から昭和初期にかけては農業の近代化が進み、区画や耕地の整理が行なわれたことで生産性が向上する。戦後になり、昭和30年代の高度経済成長期に入ると農地の宅地化が進み農業が衰退していった。不要となった柴又用水は排水路として利用されたのちに埋め立てられたが、その経路は現在も歩道などとして確認できる。現在に残る農地面積はわずかなものであるが、農家の屋敷構えを見せる旧家は各所に点在しており、門前町の基盤となった農村の様相を今に伝えている。




江戸川の堤防から見る金町浄水場の第二取水塔

 柴又は舟運など江戸川と密接に関わってきた歴史から、かつて町の広がりは川の近くにまで及んでいた。大正10年(1921年)に水害防止のため江戸川堤防の改修工事が実施され、その内側に位置していた家などは、かつて水田が広がっていた町の南側に整備された格子状の区画へと移転した。また大正15年(1926年)には町の北側に金町浄水場が建設され、これら社会基盤の整備によって柴又を取り囲む環境は大きく変化した。現在、江戸川には昭和16年(1941年)に築かれた尖塔形の屋根を持つ第二取水塔、および昭和39年(1964年)に築かれた円形のドーム屋根を持つ第三取水塔の二基の煉瓦造取水塔がそびえており、柴又の近隣における江戸川のランドマーク的な存在となっている。




関東大震災後に浅草から移住してきた山本榮之助により築かれた「山本亭」
和風の書院に洋風の接客室を併設した和洋折衷の住宅である

 柴又には題経寺以外にも多くの寺院が存在する。中でも真勝院は平安時代初期にあたる大同年間(806〜810年)に創建されたと伝わる古刹であり、江戸時代には柴又八幡神社の別当寺を担っており、現在もその近くに位置している。柴又の南部に境内を構える宝生院は、かつて台東区の池之端茅町に存在した寺院であるが、関東大震災で焼失したことにより昭和2年(1927年)に柴又へ移転した。題経寺の東側にある山本亭もまた関東大震災で被災した浅草のカメラ部品メーカー、山本工場の創始者である山本榮之助が築いた自宅である。大正末期から昭和初期にかけて整えられた邸宅と庭園、長屋門や土蔵などが現存しており、東京都内では少なくなった昭和初期の近代和風住宅として貴重な存在だ。

2021年11月訪問




【アクセス】

・京成電鉄金町線「柴又駅」から徒歩約5分。

【拝観情報】

・散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

【参考文献】

葛飾柴又の文化的景観|国指定等データベース
・月刊文化財 平成30年2月(653号)
葛飾柴又の文化的景観|葛飾区郷土と天文の博物館