―多賀城跡 附 寺跡―
たがじょうあと つけたり てらあと
宮城県多賀城市 特別史跡 1966年指定 ![]() 多賀城跡は奈良時代から平安時代にかけて機能していた陸奥国府の跡である。奈良時代には朝廷への服従を拒む蝦夷(えみし)に対する軍事拠点として鎮守府も併設されており、東北地方における政治と軍事の中心地としての役割を担っていた。仙台平野を見渡す丘陵の突端部に位置する多賀城は、約900メートル四方を築地塀などの外郭施設で囲んで南・東・西の三方に門を開く城柵の形態を取っており、朝廷による支配領域拡大の拠点として東北各地に築かれた古代城柵の代表例でもある。現在も広大な範囲に渡って土塁や土壇、礎石などの遺構が良好に現存しており、多賀城跡の全域および多賀城廃寺跡、館前遺跡、柏木遺跡、山王遺跡千刈田地区が国の特別史跡に指定されている。 ![]() 令和六年(2024年)に木造で復元された多賀城外郭南門
多賀城創建1300年記念事業の一環として整備が進んだ 多賀城の創建についての唯一の史料である「多賀城碑」によると、神亀元年(724年)に陸奥按察使(あぜち、地方行政監督)兼鎮守府将軍であった大野東人(おおののあずまひと)が築き(第I期)、天平宝字六年(762年)に藤原朝狩(ふじわらのあさかり)が修造(第II期)したとされる。宝亀十一年(780年)には伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の乱で焼き討ちされ再建(第III期)。延暦二十一年(802年)には対蝦夷前線の北上に伴い鎮守府が坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が築いた胆沢城へと移され、多賀城は国府としてのみの機能となる。貞観11年(869年)には大地震により建物が倒壊するなどの被害を受けて復興(第IV期)したが、律令制が衰退した11世紀中頃に廃絶した。 ![]() 多賀城の中枢部にあたる政庁跡
多賀城のほぼ中心に位置する政庁は、重要な儀式や政務を執り行っていた中枢の区域である。約100メートル四方の築地塀によって囲まれており、中央に正殿を構え、その東西前面には東・西脇殿、南正面には南門が築かれ、これらの建物に囲まれた広場は儀式を行う空間であった。前述の通り多賀城は四期に渡る変遷があったものの、いずれも政庁の主要な建物の配置は変わってない。政庁から外郭南門へは幅の広い政庁南大路が一直線に伸びており、その最も低い位置には雨水を排水するための暗渠施設が設けられていた。また政庁南大路の東側に位置する丘陵には鎮守府の文章実務を担当していたと考えらえている城前官衙があり、主屋とその正面には土間建物、左右には床張建物が並んでいた。 ![]() 大畑地区の北東に構えられていた平安時代初頭(第III期)の外郭東門跡
八脚門の両袖から伸ばした築地塀の左右に櫓を構える堅固な作りであった 他にも多賀城内の平坦な箇所から遺構が集中して発見されており、政庁東側の作貫地区、政庁北側の六月坂地区、東門南西の大畑地区などで建物跡が出土している。これらも実務を担っていた役所であったとみられ、他にも工房や兵士の宿舎などが置かれていた。また城外からも関連する遺跡が多数発見されている。多賀城から南東約200メートルの高台に位置する館前遺跡では政庁正殿に匹敵する規模の建物が見つかっており、国司の邸宅もしくは多賀城に関する重要施設ではないかと考えられている。多賀城から約4キロメートル南東に位置する柏木遺跡は多賀城直営の製鉄所跡とみられ、多賀城から西に約1kmに位置する山王遺跡千刈田地区は出土木簡より国司の邸宅であったことが分かっている。 ![]() 多賀城廃寺跡の塔跡に残る礎石
多賀城跡の南東約1.5キロメートルの丘陵上には、多賀城跡の附けたりとして特別史跡に指定されている多賀城廃寺跡が存在する。創建瓦など多賀城と同笵の瓦が出土しており、多賀城の附属寺院として同時期に造営され、同様の変遷をたどったものと考えられている。東側に塔、西側に金堂が向かい合って建っており、その南側には中門、北側に講堂を配している。この伽藍配置は大宰府の附属寺院である観世音寺と共通したものだ。多賀城廃寺の正式な寺名は伝わっていないものの、山王遺跡からは多賀城の附属寺院が主宰したと考えられる万灯会の土器が大量に出土しており、そのうちのひとつに「観音寺」と書かれていることから、これが有力な寺名候補と考えられている。 ![]() 多賀城の創建と修造の歴史を伝える「多賀城碑」
「多胡碑」「那須国造碑」と共に、日本三碑のひとつに数えられる 外郭南門の北側には、多賀城碑が覆屋の中に安置されている。多賀城碑は江戸時代初頭に土中から発見されたと伝わり、すぐに歌枕の「壷碑(つぼのいしぶみ)」とみなされ著名になった。松尾芭蕉も旅の途上で多賀城碑に立ち寄っており、『おくのほそ道の風景地』の一箇所として国の名勝に指定されている。以下が多賀城碑の全文である。 多賀城 去京一千五百里 去蝦夷国界一百廿里 去常陸国界四百十二里 去下野国界二百七十四里 去靺鞨国界三千里 西 此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守将 軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置 也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山 節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎮守 将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也 天平寶字六年十二月一日 明治時代以降、多賀城碑は江戸時代の偽造とする説もあったが、近年の発掘調査により碑文にある建て替えの記録と遺構の内容が一致したことから本物と証明され、平成十年(1998年)には重要文化財に、令和六年(2024年)には国宝に指定された。 2007年10月訪問
2025年06月再訪問
【アクセス】
JR東北本線「国府多賀城駅」から徒歩約10分。 【拝観情報】
拝観自由。 【参考文献】
・現地案内板およびパンフレット ・多賀城跡 附 寺跡|国指定文化財等データベース ・多賀城碑〈天平宝字六年十二月一日/〉|国指定文化財等データベース ・特別史跡多賀城跡附寺跡第3次保存管理計画|多賀城市 ・「月刊文化財」平成30年5月(656号) ・「月刊文化財」令和6年6月(729号) 【関連記事】
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