醍醐寺三宝院庭園

―醍醐寺三宝院庭園―
だいごじさんぽういんていえん

京都府京都市
特別史跡 1952年指定
特別名勝 1952年指定


 山科盆地の南部にそびえる醍醐山。その全域を寺域とする醍醐寺は、平安時代の貞観16年(874年)に弘法大師空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝(しょうぼう)が開いた真言宗醍醐派の総本山である。その子院である三宝院は、永久3年(1115年)に醍醐寺第14世座主の勝覚(しょうかく)によって創建された。以降、三宝院は数多くの名僧を輩出し、また院主が醍醐寺の座主を務める慣習ができるなど、醍醐寺の本坊としての役割を担っていく。その境内には、表書院を始めとする殿堂建築が建ち並び、それらの南には荘厳華麗な庭園が広がっている。この庭園は、豊臣秀吉が「醍醐の花見」を開催したその際に作庭されたもので、桃山文化を代表する名庭園として著名である。




醍醐寺の子院兼本坊、三宝院への入口

 室町時代に応仁の乱が勃発すると、京都の町は瞬く間に焦土と化した。都からやや距離のある醍醐寺にも戦火は容赦無く迫り、三宝院を含めたほとんどの建物が焼失してしまった。それにより寺勢を失った醍醐寺が復興するきっかけとなったのが、豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に行った「醍醐の花見」である。懇意にしていた僧侶、義演准后(ぎえんじゅごう)が座主を務める醍醐寺で花見をすると決めた秀吉は、近畿一円から桜の木を集め、醍醐寺の境内に移植させた。同時に醍醐寺の堂宇を再建し、伽藍を整えたのだ。義演の住居であった金剛輪院もまた建て直され、より立派な殿堂へと変貌を遂げた。この金剛輪院がかつての三宝院の名を受け継ぎ、現在の三宝院となったのだ。




三宝院の配置図
緑色の範囲が特別名勝の庭園、赤は国宝、黄緑は重要文化財の建造物だ

 現在の三宝院、すなわちかつての金剛輪院の改修、及び庭園の作庭は、醍醐の花見が終わった直後の4月より始められた。その際、秀吉は自ら縄張り(庭園や建造物の配置を決める基本設計)を行ったという。その年の8月に秀吉は死去するものの、工事は義演により引き継がれ、庭園の造営は続けられていった。それは義演が没する元和10年(1624年)までの27年間に及んだという。庭園の造営には腕の立つ職人が動員され、その中には後に「天下一の石組の名手」と称される賢庭(けんてい)の姿もあった。そうして完成した三宝院庭園は、規模、質共に他に類を見ない、天下人太閤秀吉の栄華を伝える名庭園としてその名を轟かせ、特別史跡、特別名勝の二重指定を受けた。




三宝院の大玄関(重要文化財)
参拝客はここより殿堂内へと入り、表書院から庭園を拝観する

 大玄関から三宝院の殿堂へ入り、葵の間、秋草の間、勅使の間を経由して表書院に入ると、目の前に広大かつ華やかな庭園がその姿を表す。庭園の中心を担う池泉には、樹齢600年以上といわれている姫小松が生える亀島、鶴が飛び立つ様子を表現した鶴島が配され、静と動のリズムを庭園に与えている。島間には石橋と木橋、それと木の上に土を盛って苔を生した土橋が架けられ、庭園をより風情のあるものにしている。池泉の手前には白砂を敷き、砂紋を引いて川を表現しており、そこには「賀茂の三石」と呼ばれる三つの石が据えられている。これは賀茂川の流れの様子を表したものであり、それぞれ左から「川の急流」「川の淀み」「水が砕ける様子」を示しているという。




この壁の向こう側が三宝院の庭園だ
なお、三宝院殿堂内部、及び庭園は一切の撮影を許されていない

 元々この庭園は、表書院から眺める為の池泉鑑賞式庭園として作られたものである。しかし義演の死後に茶の席が流行すると、庭園内に茶室がしつらえられ、池の周囲を歩く事ができる池泉回遊式庭園に改修された。現在、庭園の左奥にたたずむ茶室「枕流亭(ちんりゅうてい)」は江戸時代後期に建てられたもので、秀吉好みの茶室であると言われている。内部は三畳、二畳台目、二畳の三室に分かれ、棕櫚や栗といった珍木が用いられている。入口は躙口(にじりぐち)ではなく、屈まなくても入る事ができる貴人口である。また、表書院から見たその正面には、醍醐寺の恩人である秀吉を祀った豊国大明神が鎮座する。三宝院の本堂へ参る僧侶は、欠かさずこの社を拝し、合掌するという。




国宝の三宝院唐門
庭園を横切って勅使の間へと至る、勅使門だ

 豊国大明神の手前には、阿弥陀三尊を模した三尊石組が据えられている。その中心にそびえるのは、名石と名高い藤戸石(ふじといし)だ。平安時代、源氏と平氏が激突した藤戸合戦において、佐々木盛綱(ささきもりつな)という武将が馬が通れる浅瀬を渡って先陣を切り、戦果を上げた。盛綱はその浅瀬の情報を聞き出した漁夫を口封じの為に殺害したが、この藤戸石はその殺害現場にあったものと伝わっている。長らく細川氏の家に置かれていたものの、織田信長によって二条城へ移された。その後は秀吉の住居であった聚楽第(じゅらくだい)に置かれていたが、豊臣秀次が秀吉に切腹を命じられ、秀次が住んでいた聚楽第もまた破却された事により、藤戸石は三宝院に渡ったのだ。

2007年09月訪問
2010年11月再訪問




【アクセス】

JR奈良線、京阪「六地蔵駅」から京阪バス22系統で約15分、「醍醐三宝院」下車すぐ。

JR東海道本線「山科駅」から京阪バス22系統で約20分、「醍醐三宝院」下車すぐ。

京都市営地下鉄東西線「醍醐駅」から徒歩約10分。

【拝観情報】

拝観料400円、拝観時間は9時〜17時。

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