旧閑谷学校講堂

―旧閑谷学校講堂―
きゅうしずたにがっこうこうどう
岡山県備前市
国宝 1953年指定


 閑谷学校は、江戸時代、国替えによって岡山藩の藩主となった池田光政(いけだみつまさ)が、土木事業において多大なる功績を残した藩士、津田永忠(つだながただ)に命じて設立させた庶民の為の学校である。現在も閑谷学校には、講堂を始めとする学校施設が当時のままに残されており、そのうち学校の中心的存在である講堂が国宝に指定されている。日本の国宝建造物のほとんどが寺社建築で占められている中、この旧閑谷学校講堂は唯一国宝に指定されている学校建築である。




赤、白、茶のコントラストが美しい、旧閑谷学校講堂

 寛文10年(1670年)に設立された当時、閑谷学校の建造物は講堂を含めていずれも藁葺き屋根の簡素な建物であった。それが現在に見られる立派な赤瓦の建物になったのは、閑谷学校の創設者である池田光政が亡くなったその後の事だ。光政は息を引き取る間際、学校の運営を担っていた津田永忠を病床に呼び、閑谷学校を永遠に存続させるようにという言葉を残して没した。そこには、光政に代わって藩主となった長男の池田綱政が、庶民の教育にあまり熱心ではなかったという背景もある。その遺言を受けた永忠は、閑谷学校を未来永劫残せる学校とすべく、大改装に着手する。




南西から見た講堂
左側の建物は飲室(休憩室)、中央は習芸斎(学習室)である

 永忠は敷地を石塀(せきへい)で覆い、建築物をより長く持たせうる立派なものに建替えた。孔子を祀る聖廟の隣には、光政を祀る芳烈祠(現在の閑谷神社)を置き、その東に光政の髪や爪、歯などを埋めた椿山を築造した。学校建築と生徒たちが暮らす学房の間には、火除け山という築山を設け、もし学房で火事が起きたとしても学校に火が移らないよう防火壁とした。さらには学校周辺の土地をすべて買い上げて学校領とし、例え藩主が変わったとしても、学校は独自財政で運営していけるようにまでした。そこからは、学校存続に対する永忠の執念と、揺らぐことのない光政への忠義が感じられる。




講堂内部の様子
花頭窓から入る光は漆塗りの床に反射して室内を照らす

 そうして元禄14年(1701年)に完成した新しい講堂は、まさに揺るがしがたい堅固たる建造物となった。良質の建材を用いて完璧な施工がなされ、300年経った今でも寸分の狂い無く立ち続けている。その規模は桁行7間、梁間6間。内部は板張りの一室からなり、10本の柱が整然と並んでいる。壁には大きな花頭窓が多数設けられているが、これは明かり取りのためである。部屋の外側には庇の間という1間の縁が巡らされており、その南西側には数寄屋造りの小斎が、西側には生徒たちが学習していた習芸斎が接続され、さらに習芸斎からは生徒たちの休憩室である飲室に続く(いずれも重要文化財)。




備前焼の本瓦で葺かれた屋根と、白漆喰塗り込めの妻面

閑谷学校と言えば、見事な赤瓦の屋根が特徴的である。一見すると入母屋造りに見えるこの屋根は、錣葺(しろこぶき)という特殊な葺き方の屋根であり、勾配の緩い寄棟造りの大屋根に、勾配のきつい切妻造りの小屋根が乗った構造を取る。上部屋根の妻面は白漆喰で塗り込められており、妻飾りは束立ちの二重虹梁。破風は懸魚で飾られている。屋根に乗る赤瓦は閑谷学校が独自に窯を築いて焼いた備前焼きの瓦で、非常に硬く耐久度があり長持ちする。現在に見られる瓦も、そのほとんどが建った当時のものであるというから驚きだ。なお、これらの瓦を焼いた窯の跡は、閑谷学校の3kmほど南の位置に見ることができる。




講堂内部正面には伊豫と署名がある壁書が掲げられている
伊豫とは、光政に継いで藩主となった光政の長男、池田綱政のことである

 旧閑谷学校講堂の国宝指定は建物のみならず、壁書一枚と丸瓦一枚もまた、附けたりとして国宝指定を受けている。附けたりとは、他の文化財に付随することで一層の価値が生まれるもののことだ。この閑谷学校講堂の附けたり二件のうち、壁書は講堂内部の正面に掲げられている板であり、そこには池田綱政によって入学者の心構えが記されている。もう一つの附けたりである丸瓦は、屋根の修理の際に発見されたもので、裏に元禄13年8月と銘が書かれているもので、講堂に葺かれた屋根瓦を代表するものとして附けたり指定を受けた。

2009年03月訪問




【アクセス】

JR山陽本線「吉永駅」から徒歩約40分。

【拝観情報】

拝観料300円、拝観時間9時〜17時(入場は16時30分まで)。

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