吉備津神社本殿及び拝殿

―吉備津神社本殿及び拝殿―
きびつじんじゃほんでんおよびはいでん

岡山県岡山市
国宝 1952年指定


 岡山県は備前と備中の境、吉備中山のふもとに吉備津神社はある。吉備津彦命(きびつひこのみこと)を主祭神とし、吉備津彦命の異母弟の若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)と、その子である吉備武彦命(きびたけひこのみこと)などを合祀する神社で、かつては吉備国の一宮であったが、吉備が備前、備中、備後の三国に分けられると備中国の一宮となり、代わりに備前、備後にも吉備津神社が勧請され、それぞれの一宮となった。その中でも吉備国時代から一宮であった備中吉備津神社には、室町時代に建てられた比翼入母屋造の巨大な社殿が鎮座しており、類まれなる神社建築として国宝に指定されている。




石段の先には重要文化財の北随身門が構えている

 古代日本の時代、崇神天皇は各地の豪族を制するべく四人の皇族、いわゆる四道将軍を北陸、東海、西道、丹波にそれぞれ派遣した。孝霊天皇の第3皇子である吉備津彦命もまたその一人として西道(山陽道)に派遣され、それを平定した。その際、吉備の鬼ノ城(きのじょう)を拠点としていた温羅(うら)一族を倒しているが、これが桃太郎のモチーフとなったとされる。この温羅は朝鮮半島からやってきた製鉄の技術者とされ、それを倒したことにより朝廷は高度な製鉄技術を得たという。その後、吉備津彦命は吉備津神社がある中山に住み、亡くなった後は中山の頂上にある茶臼山古墳に葬られたと伝わっている。




真横から見た吉備津神社本殿
巨大な本殿の右側に、小ぶりな拝殿が付く

 吉備津神社の起こりは文献も無く定かではないが、社伝によると吉備津彦命から五代目の子孫である加夜臣奈留美命(かやのおみなるみのみこと)が、かつて大吉備津彦命が暮らした茅葺宮の場所に、祖神として吉備津彦命を祀ったことがその始まりであるとされる。また他にも、若日子建吉備津日子命の三代目の孫とされる稲速別命(いなはやわけのみこと)が社殿を造ったという説や、仁徳天皇がこの地に行幸した際に吉備津彦命を称えるために祀ったといった説もある。創建後も吉備津神社は朝廷や武家の篤い庇護を受けて維持されていき、今に続いていった。




斜め後ろから見ると、入母屋屋根が二つ連なった形が良く見える
「エ」の字型をしたこの形式は、他に例が無い特異なスタイルだ

 現在の吉備津神社の社殿は、室町時代の観応6(1351)年に旧社殿が炎上したことから、明徳元(1390)年に足利義満が復興したもので、その再建には25年もの歳月がかかり、応永32(1425)年に竣工した。白漆喰塗りの亀腹と呼ばれる基壇の上に建つ社殿は「比翼入母屋造」と呼ばれる造りを持つが、これは他に類の無い全国で唯一の形式である。本殿は桁行正面五間、背面七間、梁間八間と大規模なものであり、神社建築としては京都の八坂神社に次ぐ巨大さである。屋根は一重の桧皮葺で、二棟の千鳥破風を持つ入母屋屋根を連結して一つの屋根にまとめた構造を取り、上から見るとエの字の形となっている。




吉備津神社拝殿
本来の屋根の下に、瓦葺きの裳階(もこし)が付く

 拝殿は本殿の前方部に接続される切妻、妻入りの一重屋根を持つ建物であり、本殿とはもともと一帯のものとして設計された建物である。桁行は三間、梁間は一間であり、前面と左右の三方に本瓦葺きの裳階という飾り屋根が付くのが特徴的だ。これら吉備津神社の社殿は本殿も拝殿も柱は丸く、挿肘木(さしひじき)と呼ばれる組物が備わるなど奈良の東大寺と同じ大仏様の特徴を認めることができ、そこに東大寺に大仏様をもたらした僧侶である重源との関係を見ることができる。なお、神社建築に大仏様が使われているのはこの吉備津神社だけだ。その規模、特異性共に、吉備津神社の社殿は中世を代表する大型神社建築である。




本殿横から南へ400mに渡って伸びる回廊

 吉備津神社の社殿の前には北随身門が構えている。随身門とは仏教寺院の仁王門に倣ったもので、左右に神像を祀る八脚門である。社殿の裏手には回廊が400mもの長さに渡って伸びており、その途中には南随身門がある。その二棟の随身門は、どちらも重要文化財の指定を受けている。回廊の先にはこれまた重要文化財の御釜殿があり、ここでは釜とセイロで米を蒸して、その際に鳴る音で吉凶を占うという、鳴釜神事が行われている。これは吉備津彦命により首をはねられた温羅の霊を鎮めるための儀式であり、丑寅辰午未戌の日に鳴れば吉、それ以外の日に鳴ったら凶として、今もなお続けられている。

2009年08月訪問




【アクセス】

JR吉備線「吉備津駅」から徒歩約10分。

【拝観情報】

境内自由、開門時間5時〜18時。