日の出と共にテントから這い出し、人目につかないうちにテントをかたす。特に今日の幕営地は国道沿いの道の駅なのだからなおさらだ。大急ぎで荷物をまとめ、ベンチに腰掛けて人心地つく。朝食は500mlのコーラとレーズンパンだ。 出発の前に地図を開き、今日歩くルートを確認する。今日中に次なる札所へたどり着くことは不可能なので、どの辺りまで行くか目星を付けておかねばならない。というのも、第24番札所である最御崎寺が存在するのは遥か彼方の室戸岬。今いる日和佐からの距離は――およそ75km。 遍路を始めてからこれまでは札所と札所の間がそれほどなく、少なくとも一日に一箇所は札所に到達することができた。しかし、ここにきてついに一日ではたどり着けないくらいに距離の開いた区間が現れたのだ。その進路は徳島県から高知県へ、かつての国境をまたぐだけのことはある険しい道のりだ。 というワケで、今日はこれといった目標地点はなく、適当なところで宿泊することになる。どうやら30キロメートルほど先に「宍喰(ししくい)温泉」なる道の駅があるようなので、とりあえずはそこを目指すことにしよう。道の駅での宿泊にすっかり味を占め、今日もまたその敷地の片隅にテントを張らせてもらおうという魂胆だ。 とまぁ、人里に近いうちは古いモノがいろいろあって楽しみながら歩いていたのだが、山へと入るにつれて面白味のないただの車道と化していった。いや、それだけならまだマシなのだが、途中から歩道が狭くなったのが痛い。すぐ横をスピードを出した車が走り抜けていって怖いわ、風圧で菅笠が飛ばされそうになるわで散々だ。 辟易しつつ単調な上り坂をひたすら進んでいくと、前方にトンネルが現れた。私は思わず眉根を寄せる。淀んだ空気に満ちた薄暗い空間の中、遠慮を知らない自動車たちが爆音をひっさげ迫ってくる。歩き遍路において、国道のトンネルほど嫌なものはない。 もっとも、車にとっても歩行者は恐ろしい存在なのだろう。そんな両者にとってありがたい計らいが、牟岐(むぎ)警察署によってトンネルの脇に設置されていた、のだが……。 残念ながらリストバンドは既に売り切れであった。といいつつも、実は私のザックには既に反射材が括り付けられている。トンネル内はもちろんのこと、やむを得ず夜に歩く時などにも車に視認してもらいやすくなるので、歩き遍路に関わらずザックに反射材をつけてるのは事故予防としてオススメだ。 トンネルを抜け、山道をゆるゆる下っていくとやがて人里に出た。何もない殺伐とした車道を歩いてきただけに、眼下に広がる田畑に心が安らぐ。 どうやら牟岐警察署前に休憩所があるらしい。この先に待ち構えている牟岐の町は、日和佐から山を越えてきた遍路にとって休憩するのにちょうど良い位置にある。そろそろ休もうかとベンチを探していただけに、なんとも絶妙なタイミングでの告知であった。せっかくのご厚意なので、立ち寄らせて頂くことにしよう。休憩するのはもう少し我慢だ。 国道55号線はかつての土佐浜街道を踏襲しているらしく、なるほど、確かにところどころに石仏など古いモノが散見される。旧街道の大部分は国道によって上書きされたのだろうが、このような車道を外れた集落内には昔ながらの風情が残っているものだ。 ちなみに近世の俳人である種田山頭火(たねださんとうか)もまたこの街道を歩いたそうで、牟岐手前の集落には山頭火が宿泊したことを示す石碑が建っていた。国道の脇道に並ぶ昔ながらの町家を眺めながら歩き、牟岐には10時過ぎに到着した。 立派な商家の町並みに圧倒されていると、ふと初老の女性が私に近づいてきた。すわ何事かと思いきや、私に何かを握らせ「飲み物代に使ってちょうだい」と仰る。拳を開けて確認すると、そこには銀色に輝く500円玉があった。 これまでお接待として品物を頂いたことはあったが、現金を渡されたのは初めてだ。正直いってかなり困惑したが、お返しするのはこの方のご厚意を無下にすることになってしまう。大いに感謝しつつお礼の納め札を手渡し、ありがたく受け取らせて頂いた。 お接待といえばもう一つ、先ほどの看板にあった牟岐警察署前の休憩所にも寄ってみた。以前は警察署の敷地内に設けられていたようだが、実際には警察署を少し過ぎた右手の土地に仮設テントが張られていた。 地元のお母さん方がボランティアで運営している接待所のようで、お菓子やゆで卵などちょっとした食べ物も用意されていた。日和佐から4時間通しで歩き続けて少々疲れを感じていただけに、このような休憩所の存在は本当にありがたく思った。 牟岐を出てからは再び国道55号線を進む……のだが、この先にはトンネルがいくつかあるようなので、それらを避けるべく旧道を辿ることにした。山を越えるので余計な時間と体力を費やすことになるが、恐怖と危険に満ちたトンネルに入るよりはマシである。 国道から離れて旧道の坂道を上っていくと、右手に「大坂峠入口」と書かれた手作りの看板が設置されていた。私が持っている遍路地図には描かれていないルートであるが、どうやら昔の遍路道が残っているらしい。 江戸時代まで遡る古い石造物も残っており、紛うことなき古道であることが分かる。トンネルを毛嫌いして旧道を歩いてみたら、さらに古い遍路道を見つけることができた。いやはや、これは儲けものだ。 わずか30分足らずで抜けられる短い峠道ではあるもの、その途中では海が見えたりとなかなかゴキゲンな遍路道であった。 この石仏も江戸時代のものらしく、本来は峠にあったものを現在地に移したとのことだ。この辺りの区間は「八坂八浜」と呼ばれ、峠と浜を繰り返す交通の難所として知られていた。無事通過できるよう、旅の安全を祈願して草鞋を供えていたという。 残念ながら私は靴がなくなると困るので(それに汚い靴だし)履物をお供えすることはできないが、とりあえず軽く手を合わせてこの先の無事を祈っておいた。 設置されていた案内板によると、このトンネルは大正10年(1921年)に竣工した「松阪隧道」だという。外観は煉瓦造風だが、実際は当時の最先端であったコンクリートでできており、現場でコンクリートを打ち込む工法のトンネルとしては国内最古のものだという。 松坂隧道というぐらいなのだから松坂峠という古道もあったのだろうが、その入口は見当たらなかった。後から調べて分かったことだが、どうやら松坂峠の入口はこの旧道沿いではなく、現在の国道55号線のトンネル横にあったようだ。旧道は必ずしも古道をなぞるわけではないのである。でもまぁ、歴史的に意義のあるトンネルを見つけることができたので、これはこれで儲けものだ。 旧道を下って国道55号線と合流し、そのまま平坦な道を行く。程なくして道路の先にトンネルが見えてきた。それほど長いトンネルでもないようだし、これくらいだったら回り道する必要なはいかと思ったその矢先、トンネルの右手から山へと入る道が伸びていることに気が付いた。 どうやらこの道もまた八坂八浜のひとつ「鯖瀬坂」だそうだ。かつての土佐浜街道にあたり、もちろん遍路道でもある。なるほど、これまた面白そうではないか。私の足は吸い込まれるようにその道へと向かっていった。 10分程度で抜けられる短い峠道ではあるものの、深く切り込んだ道に木々が太い根を張っており迫力がある。大坂峠が軽快で明るい印象の古道に対し、こちらは重厚で濃密な印象の古道だ。 苔で滑りやすい坂道を下っていくと、視界が開けて墓地に出た。そのまま道なりに進んでいく。どうやらお寺の境内のようである。 この鯖大師は正確には八坂山八坂寺と称し、昭和43年に創設された四国別格二十霊場の第4番札所であるとのことだ。へぇ、四国には八十八箇所霊場の他に別格霊場などというのもあるのか。割と最近できた霊場の区分とはいえ、選ばれたからにはそれ相応の歴史やいわれがあるのだろう。 伝承によると、ここは弘法大師空海が修行をしていた場所だという。ある日の朝、馬に塩鯖を背負わせた馬子が空海の前を通りかかった。空海は塩鯖をひとつ施してくれないかと頼んだものの、馬子は口汚く罵って立ち去ったという。ところが馬引坂に差し掛かったところで馬が突然苦しみだし、恐ろしくなった馬子は引き返して空海に塩鯖を与えた。空海が加持した水を与えると馬はたちまち元気を取り戻し、また塩鯖を海に戻すと生き返って泳ぎ去ったという。この馬子が後に創建したのが八坂寺とのことだ。 これまでも遍路道沿いでは弘法大師にまつわる伝説を度々見てきたが、今回はなかなのトンデモっぷりである。特に死んだ鯖が蘇るくだりは圧巻であるが、ただ実際にこの場所が鯖瀬(鯖生)という地名であることを考えると、根拠のないただの伝説と切り捨てるのも無粋だろう。 しばらく進むと浅川という集落に到達し、そこから遍路道は再び内陸へと向かっていった。古道や旧道などが残っていない至って普通の車道で峠を越えると、そこそこ規模の大きな町に出た。海陽町の中心部に到着したのだ。 現在、遍路道沿いに数多く整備されている遍路小屋。その第一号がこの「香峰(こうほう)」である。これらの遍路小屋の設置を提唱したのは海部町出身の建築家である歌一洋(うたいちよう)氏で、平成13年(2001年)より「四国八十八ケ所ヘンロ小屋プロジェクト」として遍路小屋の建設を推し進めているそうだ。 ここの遍路小屋はなかなか広々とした感じの休憩所で、立派なトイレも併設されている。ただし仮眠や宿泊は不可とのこと。まぁ、町中ですし当然といえば当然ですな。せっかくの遍路小屋第一号なので、少しばかり休憩してから行軍再開。 こんな感じのトンネルを、赤瀬川原平の本で見たような気がする。いわゆる「無用トンネル」と呼ばれるトマソン物件だ。調べてみると、やはりこのトンネルが無用トンネルの代表例として紹介されていた。かなり前に本で見ただけの風景なのに、現地で通りかかったら一発で思い出せるとは。さすがは超芸術トマソン、そのインパクトは絶大である。 そろそろ日が傾いてき始めてきたので、無用トンネルの前にあるスーパーで食料を買い込む。本日の目標と定めた宍喰温泉までは残り6、7kmといったところか。懐中時計を開いて時間を確認すると、ちょうど16時を回ったところだ。これならまぁ、日没までには到着するだろう、と思っていたのだが……。 この遍路小屋もなかなか広く、国道沿いであることを除けば宿泊に適しているような気もする。でも、やっぱ道路と近すぎてトラックなどの騒音に悩まされそうだ。そんなことを思いつつ、スルーして坂道を下っていく。 下り坂から平坦な道に変わったところで、ふとした違和感を覚えた。なんだか歩く感覚がいつもと違うような……あっ! 杖がない! さっき買い物をしたスーパーの入口に置いたまま、忘れてきてしまったのだ。 四国遍路において、金剛杖は弘法大師空海の化身とされる。遍路は常に空海と共にあるという「同行二人(どうぎょうににん)」の考え方だ。そんな金剛杖を置き去りにしてしまうとは遍路としてあるまじきミスである。 自分の失態を嘆きつつ、今しがた上り下ってきた坂道を再び戻る。……とその時、坂の上から一人の老遍路が歩いてきた。遍路道を逆走しているのだから別の遍路が歩いてくるのは当然のことなのだが、その風貌があまりに凄くて驚かされた。髪の毛や髭がもしゃもしゃ生えており、まるで仙人のような風貌だったのだ。そのすさまじい迫力に圧倒されつつ「こんにちは」と挨拶を交わしてすれ違う。たったそれだけの交流ではあったが、なんていうか、凄い人に出会ったという感じである。 ひょっとしたら、金剛杖は私をこの人と引き合わせるために自分を忘れさせたのではないだろうか。そんな夢想が頭をよぎっても不思議ではないくらいに衝撃的な出来事であった。 那佐湾の沿岸に沿って進み、もうひとつ山を越える。太陽は既に西の稜線に沈んでおり、徐々に宵闇が迫ってくる時間となった。あと少し、あと少しで道の駅がある宍喰に出る。少し早目の足取りで坂道を上るさなか、歩道の脇から山の中へと入っていく未舗装路が目に留まった。 私は古道を見たらつい入り込んでしまうタチであるが、この道はほとんど管理がされていないのだろう、少し進んだところで草木が生い茂り、それ以上進むことができなくなった。藪漕ぎをするような余裕は時間的にも体力的にもないし、残念ながら今回はスルーさせて頂く。 そうしてようやくたどり着いた宍喰であったが、この町の道の駅は想像していたものとは大きく異なっていた。 道の駅「宍喰温泉」は、ホテルの敷地に観光案内所が併設されたような施設であった。駐車場は非常に狭く、人の往来もかなりある。昨日の日和佐の道の駅のように敷地の片隅にテントを張ったりなどしたら、警備員が飛んできそうな雰囲気だ。 がっくりと肩を落としながらも、とりあえずはホテルの日帰り温泉で汗を流す。日和佐の温泉は塩っ気のあるサラサラとした泉質だったのに対し、こちらはアルカリ性なのだろう、ヌルヌルしたお湯であった。たった一日歩いただけの距離であっても、温泉の性質というのは随分変わるものなのですな。 サッパリしたところで問題は寝床の確保であるが、海岸沿いに少し進んだところに海水浴場の駐車場があったので(シーズンオフだからか車は一台も停まっていなかった)その片隅にテントを張らせていただいた。寝るところなど、意外となんとかなるものだ。 Tweet |