巡礼38日目:プエンテ・ラ・レイナ〜エステージャ(22.0km)






 私がベッドから身を起こすと、ハチマキさん夫妻が寝ていたはずのベッドは既に空になっていた。時間は6時、随分とお早い出発である。いや、私が遅いだけなのか。

 少しの間ベッドルームでボーっとしていると、ふと扉が開き、シンさん姉妹が顔をのぞかせた。私たちはもう出発するのだけど、朝食を作っておいたから食べてという。私はお礼を言って二人を見送った後、キッチンへと向かった。

 キッチンのテーブルに置かれた鍋には、まだ十分に温かさの残るおかゆが用意されていた。私はそれを皿によそい、スプーンでもぐもぐ食す。いやはや、朝から温かいご飯が食べられるのは、なんともありがたい事である。その温かさが臓腑から体全体へ染み渡り、まだ半分眠っていた体がシャキッと目覚めた感じだ。


朝日を浴びて黄金色に輝くプエンテ・ラ・レイナの町並み


畑沿いの道を行き、途中から丘の坂道に入る

 アルベルゲを出た私は、いつも以上にわくわくした気持ちで巡礼路を歩いていた。昨日の夜にハチマキさん夫婦から聞いた話によると、なんでも今日歩く区間には古代ローマ時代の石畳が残されているのだという。中世どころか古代にまで遡る古道を歩けると知り、古いモノが好きな私としてはテンションが振り切れんばかりに上がっていたのだ。

 丘の上り坂は結構急であったが、それでも私の足取りは軽い。一気に登り詰め、その先にあるマニェル(Maneru)の村に到着した。


良い感じにまとまったマニェルの町並み

 私は村の中心にそびえる教会のもとへ行くと、そこで少しばかりの休憩を取った。このマニェルも、教会を始めなかなか立派な建物が多く、歴史を感じさせるたたずまいである。だがしかし、ここからさらに畑の道を歩いた先に位置するシラウキ(Cirauqui)は、これをも軽く上回る見事な美観の村であった。


マニェルから続く道の向こうに見えたシラウキ


細い路地が伸び、かわいらしい家屋が並ぶ


路肩には1638年との銘がある十字架が立っていた

 緩やかに蛇行しながら進む巡礼路の先に見えたシラウキは、丘全体を覆うように家々が建つその外観からして並々ならぬ雰囲気が漂っていた。周囲の穏やかな巡礼路の景観と相まって、まさにこの周辺は「フランス人の道」序盤を象徴する区間と言えるだろう。

 細く伸びる路地に家屋が建ち並ぶ町並みも素晴らしく、その個々の建物も長きに渡る時間を経てきた重みが感じられる。きっとこの村は、サンティアゴ巡礼が盛んであった中世の頃からこんな感じなのだろう。建物の更新はあれど、その雰囲気は受け継がれてきたに違いない。時を越えて昔の巡礼者と景色を共有できる、ここはそんな村である。


矢印に従って歩くと、なぜか建物に行き当たった


巡礼路はこの右の入口に入り、建物の内部を突っ切っているのだ

 丘の頂上に立つサン・ロマン教会も非常に古いもので、入口にはロマネスク様式の彫刻が施されており非常に立派だ。私はしばらくシラウキをプラプラ歩き、てその雰囲気を楽しんでからのんびり村を出た。

 シラウキを出て丘を下るその途中、巡礼路の様子が少し妙である事に気が付いた。道には石畳が敷かれているのだが、その石畳がこれまで見た事無いような形状なのだ。使われている石は平べったく、しかもそれを縦に埋めている。表面の仕上がりはかなり荒く、デコボコである。摩耗が激しく、中央部がへこんでいるものも多い。

 不思議に思いながらも歩いて行くと、坂を下り切った所にはこれまた見た事が無い形状の石橋が架けられていた。アーチ橋ではあるものの径に比べて橋全体が大きく、ややずんぐりとした印象だ。経年の為だろうか、上部の石材がギザギザに削られまるで歯車のようである。相当に古いもののようだが、少なくとも中世のものではない。……と、そこまで考えて、私ははっと我に返った。なるほど、これが古代ローマ時代の道なのか。


形状が独特な古代ローマ時代のアーチ橋


その付近に敷かれている石畳も独特だ

 サンティアゴ巡礼が始められた中世よりもずっと古い紀元0年前後、ローマ帝国によって敷かれた街道の一部が今もなお良好な状態で現存している。その事実を改めて確認すると共に、この道が歩かれてきたその長い歴史に呆然とするばかりである。

 スペイン内のサンティアゴ巡礼路はローマ帝国が整備した街道をベースにするものが多く、この「フランス人の道」もまたしかりである。とは言え、こうもしっかり当時からの往来を伝える証左が残されているとは。道を維持してきた人々に感服すると共に、2000年の歳月に耐えうる土木技術を有していたローマ帝国に脱帽する。

 ただ、少し気になったのは、この道のすぐ側を高速道路が通っている事だ。巡礼路は高架橋を渡って高速道路の対岸へと続いているのだが、この道路を建設する際に古代ローマ時代の石畳が一部破壊されたと聞く。それがもし本当だとすると、2000年もの間受け継がれてきた道が、現代の一瞬にして崩された事になるワケだ。そう考えると、少しばかり虚しい気持ちになる。


巡礼路は広大な畑の中を行く


古代ローマ時代とはいかないまでも、古い橋が残っていた


その先には再び石畳が現れ、これがしばらく続く

 高速道路を過ぎてからは穏やかな畑の道である。相変わらず麦畑が主であるが、中には白色がかった緑の葉が茂るオリーブ畑や、背の低い木々が連なるワイン用のブドウ畑も散見された。足元には特徴ある石畳が続き、気分は最高潮である。

 石畳が途切れた後は再び高速道路を横切り、車道沿いの道を少し行く。その途中には水路橋が巡礼路を跨いでいた。コンクリート製ではあるものの、巡礼路の風景としてはそれほど違和感が無い。おそらく、石造でも再現できそうなくらいの規模だからだろう。


巡礼路を跨ぐ水路橋


その先にはまたもや中世の橋があった

 この「フランス人の道」には古い橋が本当に良く残されている。それはピレネーを越えてから毎日思っている事だ。プエンテ・ラ・レイナの「王妃の橋」のように著名なものはもちろんの事、小さな川に架かる何気無い橋もまた同様である。いや、むしろ、このような無銘の橋が大事にされている事こそが凄いのだろう。


ロルカ(Lorca)という村の手前で杖お姉さんの親子に会った

 橋を渡ってから坂道を上るとロルカという村にたどり着く。その手前では杖のお姉さん親子が私に追い付いてきた。日差しがだいぶ強まり、気温が上がってきた為「ショアー(フランス語で暑い)」を連呼しながらの到着である。

 この村で昼食にしようと思ったものの、食料品を売っているお店が見当たらない。バルはあるものの、昼食をバルで済ますのは割高になりそうなのでできるだけ避けたいところである。汗だくになりながら村のメインストリートをうろうろした後、諦めて先に進もうと村を出ようとしところ、その出口に雑貨屋を発見した。私は喜び勇んで「オラー(こんにちは)」と店に入り、パンとビールを買って店先のベンチで食べた。ビールはキンキンに冷えており、太陽に照らされ火照った体によく染みる。いやぁ、たまらんですわ。

 二本目のビールを飲み干し、さて出発しようかとザックを担いで立ち上がったその際、店先に設置された温度計が目に留まった。何気無く目盛りを見やると、その温度計はなんと37度を指しているではないか。ひぇー、どうりで暑いワケである。フランスのナスビナルで見た温度計は5度だったのに、わずか一ヶ月間で30度以上の上がり幅とは。いやはや、随分遠くに来たものである。


汗を流しながらブドウ畑の道を行く


風車(風見鶏?)を横目にビジャトゥエルタ(Villatuerta)へ


新しい建物が目立つ町だが、中心部には古い建物や橋も残る

 新興の住宅街を抜け、古い橋を渡って少しの坂道を登ると巨大な教会の前に出た。芝生の広場では、たくさんの巡礼者が寝転がって休んでいる。傍らにザックを携え休憩している人もいれば、既にこの町に宿を取った巡礼者なのか、手ぶらで昼寝をしている人もいた。時間は14時半、早い人はこのくらいの時間で一日の巡礼を終えるようである。

 私もまた教会前で少しだけ休憩を取った後、そのままビジャトゥエルタを後にした。今日はもう少し先にあるエステージャ(Estella)という町まで行くつもりだ。


ビジャトゥエルタの少し先にたたずむサン・ミゲル礼拝堂


なんと10世紀に建てられたものだという

 ビジャトゥエルタを出て未舗装路を少し歩くと、眺めの良い丘の上に小さな礼拝堂が鎮座しているのが見えた。なかなか雰囲気が良さそうなので寄ってみると、珍しくも入口が開け放たれており出入りが自由であった。もっとも中はがらんどうであり、そもそも鍵をかける必要が無いのだが。かつてはロマネスク様式のレリーフがあったらしいが、今ではパンプローナのナバーラ博物館に移され、保管されているそうだ。

 さらに丘の道を行き、坂を下って谷沿いの道をしばらく歩くと、これまた歴史ある様相の町並みが見えてきた。エステージャに到着である。


通りに沿って建ち並ぶエステージャの町並み

 エステージャの公営アルベルゲは、町の入口近くの分かりやすい場所にあった。私はオスピタレオに宿泊費の6ユーロを支払い、ベッドルームの場所を教えてもらう。ここのアルベルゲはベッドが指定がされず、空いているベッドを好きに選べるシステムであった。せっかくなので、二段ベッドの下段を確保し寝袋を敷く。

 洗濯物を干していると、パンプローナのアルベルゲで一緒になったノルウェー人男性に会った。他にも見覚えのあるメンツが多い。スペインに入って5日目、だいぶ宿のメンバーが固定化されてきた印象である。

 私はアルベルゲを出ると、いつものごとく町の散策を開始した。風情のあるエステージャの町並みを中心に向かって進んで行くと、突然左手の視界が開け、巨大な教会がその姿を現した。13世紀に建てられたサン・ペドロ・デ・ラ・ルア教会である。


石段の上に建つ、城塞のようなサン・ペドロ・デ・ラ・ルア教会


ロマネスク様式をベースにゴシック様式が混在している


回廊の柱がなぜか一本だけねじれていた

 またこのサン・ペドロ・デ・ラ・ルア教会の前には、12世紀に建てられたロマネスク様式の王宮が残されている。王宮とは言うものの城のように独立して建っていワケではなく、普通の町並みの中に隣家と軒を並べて建っているものだ。言われてみて初めてその作りの立派さに気付く感じである。

 また、エガ川に架かる橋を渡ったその対岸には、サン・ミゲル教会が鎮座する。こちらもまた高台の上に建っているので入口まで石段を登るのが大変だが、その玄関にたどり着いた私を迎えてくれたのは素晴らしいロマネスク様式の彫刻だった。


谷間の町なので、大きな教会は高台にあるのだ


入口のタンパンとアーチは彫刻で飾られている


おぉ、これまた凄い教会である

 このサン・ミゲル教会と先程のサン・ペドロ・デ・ラ・ルア教会は、内部の拝観が可能である。ただ、こちらは照明が無く教会内が薄暗い。写真を撮りたくてもこの暗さじゃ難しいなぁと思っていたら、突然パチンと電気が付いた。

 振り返ってみると、そこには壁に据えられた箱にコインを入れる欧米人男性の姿があった。なんと、この教会は照明が無いわけではなく、1ユーロの有料制だったのだ。明かりを付けてくれた男性は何枚か祭壇の写真を撮り、そして満足そうに教会から出て行った。照明は付いたままなので、私もまたその恩恵に与る。……が、数枚の写真を撮った所でパチンと電気は消えてしまった。タイムアップのようだ。


1ユーロで3分間くらい照明が付く仕組みであった

 照明にお金を取るとは少しセコイように感じたが、まぁ、他人が付けてくれた照明で写真を撮る私も十分セコイのでお相子である。そもそも、教会が閉まっている事の多いスペインにおいて、無料で内部を開放してくれている事自体が非常にありがたいものなのだ。

 私はその後もエステージャの市内を歩いて回った。エステージャは私が思っていたより遥かに凄い町である。サン・ペドロ・デ・ラ・ルア教会やサン・ミゲル教会を始め、中世に建てられた建造物が数多く現存するし、旧市街の町並みも同じくらいに古いものだ。谷間の限られた土地に形成された町でありながら、歴史をぎゅっと圧縮したような、密度の高い町である。

 ほくほく顔で市内観光を終えた私は、旧市街にあったスーパーで夕食を買いアルベルゲに戻った。混み合うキッチンでスパゲティを茹で、フライパンで温めたソースをかけて出来上がり。室内のテーブルは既に満席だったので、私は中庭に出て食べる事にした。


夕食はいつも通りのスパゲティに生ハム、それとイラーチェのワイン

 席を確保してスパゲティをすすっていると、ふと隣のテーブルに座っていた初老の女性が日本人である事に気が付いた。最初は韓国人かと思ったが、仕草が何となく日本人的だったのである。目が合ったのでとりあえず「あ、こんにちは」と挨拶してみると、その女性もまた「こんにちは」と挨拶を返してくれた。うん、やっぱり日本人だった。

 少し話をしたところ、なんとこの女性は今回で三度目のサンティアゴ巡礼なのだという。「明日歩くのはどんな所なんですか?」と私が尋ねると、女性は私が飲んでいたワインのボトルを指差し「そのワインの産地、イラーチェを歩くのよ。知って買ったんじゃないの?」と笑った。おぉ、私は巡礼路沿いの町で造られたワインを飲んでいたのか!テキトーに買ったものだったのだが、期せずして明日の予習となったようである。