巡礼72日目:オ・ペドロウソ〜サンティアゴ・デ・コンポステーラ(20.0km)






 4月24日にフランスのル・ピュイを出発して今日で72日目。雪の残るオーブラックの牧場地帯を歩き、森林地帯と麦畑の道を歩き、雨が続いたバスクを歩き、ピレネー山脈を越え、ブドウ畑が連なるリオハを歩き、どこまでも平らな土地が広がるメセタを歩き、イラゴ峠とセブレイロ峠を越え、そして緑鮮やかなガリシアを歩き、何とかここまでやって来る事ができた。あまりに遠いと思われたサンティアゴは、残り20kmの地点にある。

 その途上では様々な出来事があった。数多くの巡礼者たちとご一緒し、美しい町並みや歴史的建造物を堪能し、巡礼路に残る中世の橋の多さに驚かされた。サンティアゴ巡礼路上で過ごした日々は非常に濃厚かつ濃密で、これ以上無いくらいの旅行ができたのではないかと我ながら思う。さぁ、泣いても笑っても最終日。私のサンティアゴ巡礼の総仕上げと洒落込もうじゃないか。

 私は張り切ってザックを担ぎ、アルベルゲから勢い良く飛び出したものの、ドアの向こうは見事なまでの雨空であった。しとしとと降り注ぐ雨がアルベルゲ前の石畳を濡らしている。えぇー、せっかくの最終日なのにまさかの雨天とは。最後の最後にこんな試練を与えて下さるとは、神も粋な事をしてくれるものだ。


雨の中、私は7時半にオ・ペドロウソを出発した


森の道はいつも以上に薄暗く、不気味である

 長引きそうだと思った雨は、意外にもすぐに止んでくれた。雨が降った後は道のコンディションが悪化すると相場が決まっているものの、さすがにサンティアゴ間近という事もあってか道はしっかりと踏み固められており、せいぜい小さな水たまりが散在する程度であった。

 林を抜けてアメナル(Amenal)という集落を歩いていると、どこからともなく「ゴォォー」という地鳴りのような音が聞こえてきた。なんだなんだと顔を上げると、集落の向こうから飛び立つ飛行機の姿が見えた。どうやらすぐ近くに空港があるようだ。


アメナルの集落を抜けて上りの山道に入る


坂を登り切って平らな道を行くと、飛行場が見えた

 アメナルを出た後はやや急な上り坂で、少々足に堪えたが、坂の長さはそれ程でも無く、程無くして平らな道に変化した。草木が茂る中をのんびり歩いて行くと、巡礼路は突如として直角に折れ、北へと進路を変更した。やや不自然な方向転換だったので不思議に思ったが、その疑問はすぐに解消された。木々の切れた箇所から、灰色の滑走路が見えたのだ。なるほど、巡礼路は空港を迂回しているのである。

 空港の北端で国道と合流し、そこからは車道沿いに通された巡礼路を行く。雨が再度降ってきたので木の下で雨宿りをしつつ、数多くの巡礼者と共に一歩一歩サンティアゴへ歩みを進める。


巡礼路は空港の敷地に沿って続く


空港西側に位置するサン・パイオ(San Paio)で一休み

 空港から離れたと思った直後、サン・パイオという村に到着した。その中心には小さな教会が建っていたので寄ってみると、入口の扉は開け放たれており、出入り自由になっていた。誰かが番をしているというワケでもないようで、堂内はひっそりと無人である。隅のテーブルに目をやると、勝手に押してくれと言わんばかりにスタンプが置かれていたので、それでは遠慮なくと巡礼手帳に押させて頂き教会を後にした。

 サン・パイオを出て高速道路の高架を潜り、緩やかな上りの道を歩いて行くと、前方に足を引きずって歩く女性巡礼者の姿が見えた。どうやら私と同じく左足を痛めているようで、その歩みは極めてスローである。勝手にシンパシーを感じた私は「あともう少し、頑張って」と心の中で呟き、その女性を追い越した。


私と同様、左足を引きずって歩く女性巡礼者


ここに来て、経由する集落の数がさらに増えた

 サン・パイオからの坂道を登り切ると、ラバコージャ(Labacolla)という村に出た。小川を渡り、再び坂を登るとビラマホール(Vilamaior)である。ガリシア州は巡礼路上に小さな集落が多いが、今日は特に経由する集落の数がいつも以上な気がする。いかにも大きな町に近付いているという雰囲気で、何とも気持ちが盛り上がる。

 道もアスファルトの舗装路ばかりとなり、サンティアゴまであと少しという実感が持ててくる。一方で路肩の石垣や木々には濃い緑の苔が分厚く堆積し、多雨なガリシア地方ならではの底力を垣間見れた。巡礼路の景観は、最後の最後まで個性的だ。


まるでスプレーを吹き付けたかのように生える苔


気合を入れて最後の急坂を登る


そうして到着したのがモンテ・ド・ゴゾ(Monte do Gozo)だ

 巡礼路は大きなアンテナを持つテレビ局の建物を横切り、乗馬場の脇を抜けて一気に高度を上げモンテ・ド・ゴゾに辿り着く。モンテ・ド・ゴゾとは「歓喜の丘」という意味であり、サンティアゴを目指し歩き続けてきた巡礼者たちが、その丘の頂から初めてサンティアゴのカテドラルを目にし、歓喜の声を上げたという逸話から付いた名だ。

 巡礼路がしっかり整備され、身の安全も確保されている現在とは違い、中世の頃のサンティアゴ巡礼はまさに命がけであった。道中で命を落とす者も多く、サンティアゴまで歩き通す事ができた巡礼者の割合はそう多くなかっただろう。そのような中、サンティアゴのカテドラルを目にした時の歓喜は計り知れないものだったに違いない。キリスト教徒でない私でさえ、三本の尖塔が見えた時には無類の喜びを感じたのだから。


ついに見えた、サンティアゴのカテドラル


かつての巡礼者の姿を模した像もある(が、修理中だった)

 モンテ・ド・ゴゾに到着した時間は正午。私は巡礼者像の横に座り、サンティアゴの町を眺めながら昼食を取った。2ヶ月以上歩いてきたその目的地が目と鼻の前にある。手を伸ばせば届きそうなカテドラル。途端に、私の内側からこれ以上無いくらいの興奮が込み上げてきた。私はすくっと立ち上がると大きく息を吸い、腹の奥から声を出し「やってきたぞ、サンティアゴ!」と叫んでみた。声に出すと実感がさらに増し、私はサンティアゴに到着する事への歓喜に打ち震えた。

 モンテ・ド・ゴゾには小さな礼拝堂が建っており、その扉の横にはスタンプが置かれ、自由に押せるようになっていた。私もまた当然のごとく巡礼手帳に押したのだが、興奮冷めやらぬ私は思わず手がブレてしまい、上手く押す事ができなかった。


モンテ・ド・ゴゾのサン・マルコス礼拝堂


800人が収容可能という超巨大アルベルゲもある

 礼拝堂から少し下った所には、モンテ・ド・ゴゾの公営アルベルゲが存在する。敷地内に数多くの建物がズラリと並ぶ、サンティアゴ巡礼路上最大のアルベルゲだ。食堂も併設されており、私はここでトイレをお借りした。

 あともう少し歩けばサンティアゴなのに、なぜこんなにも巨大なアルベルゲがモンテ・ド・ゴゾに存在するのだろうと少し疑問に思ったが、それにはちゃんと理由があるようだ。一つは、ここに泊まれば朝の静かな時間にサンティアゴへ到着できるという事。もう一つは、到着したその日の正午ミサに出席できるという事だ。サンティアゴのカテドラルで行われる正午ミサでは、巡礼事務所で到着の手続きを行った巡礼者の国籍、出発地点が発表されるらしい。午前11時までに到着手続きを済ませた巡礼者の名は、その日のミサで読み上げられるとの事である。

 また現実的な問題として、サンティアゴのアルベルゲは宿泊費が高いという事もある。モンテ・ド・ゴゾのアルベルゲは5ユーロなのに対し、サンティアゴのアルベルゲは7〜12ユーロと、場合によって倍以上の値段である。朝サンティアゴに着いてその日のうちに帰路に付く、あるいはその日のうちからフィステーラを目指すという人もいるだろう(フィステーラの詳細については後述)。まぁ、ともかく、このアルベルゲの需要はあるようだ。


坂を下っている途中、杖を忘れた事に気が付いた

 アルベルゲでトイレを借りた後、私は何か違和感を覚えて足を止めた。あ、杖が無い。先程の礼拝堂でスタンプを押す際、壁に立てかけておいたのを忘れていたのだ。私は取りに戻ろうかと迷ったものの、今しがた下ってきた坂を振り返って諦めた。この急坂を上り直すのは一苦労である。今の私は、何よりもサンティアゴに着く事を優先したい。

 それに、杖を持たずに坂を下れたという事は、足がそこそこ回復してきたという証拠でもある。ビジャフランカからここまでずっと、私の足をかばい続けてくれていた杖を置き去りにするのは忍びないが、後続の誰かに使ってもらえればと願いを込めてお別れする事にした。


坂を下り切り、サンティアゴの町に入った!


不気味なオブジェが巡礼者をお出迎え

 モダンな建物が並ぶ新市街を歩き、それから旧市街に入る。サンティアゴは周囲を山に囲まれた土地にあり、その市街地は新旧問わず起伏が多い。緩やかな坂道を上っては下り、一路カテドラルを目指す。

 昼過ぎののんびりとした時間帯ではあるものの、町には活気があり、市民に巡礼者に観光客と、数多くの人出で賑わっていた。ガリシア州の州都であるサンティアゴは、ただでさえ人が多くて当然な町だとは思うが、やはりそれ以上にカトリック三大聖地のひとつだという事があまりに大きいのだろう。街角には大道芸人やバグパイプの演奏者が出てパフォーマンスを行っており、通行人の目を惹き付けていた。


石畳が敷かれ、古い建物が連なるルア・デ・サン・ペドロ通り


セルバンテス広場を抜ければカテドラルまであと僅か

 サンティアゴをカトリックの聖地たらしめるのは、イエス・キリストの十二使徒は一人、聖ヤコブ(サンティアゴ)の墓所の存在である。ヒスパニア(現在のイベリア半島)で布教活動を行っていた聖ヤコブは、イェルサレムに帰還した際にアグリッパ1世によって捕えられ、斬首の刑により十二使徒最初の殉教者となった。その遺体は二人の弟子によって船で運ばれ、サンティアゴから南へ約20kmの地点にあるパドロン(Padron)に流れ着き、ここサンティアゴの地に埋葬されたという。

 所在不明のまま長らく忘れ去られていた聖ヤコブの墓所であるが、その後の9世紀に再び日の目を浴びる事となった。伝説によると813年、一人の羊飼いが星の光に導かれ、野原の洞窟で聖ヤコブの墓を発見したとされる。その報告を聞いたアストゥリアス王のアルフォンソ2世は、最初の巡礼者として「原始の道」経由で聖ヤコブの墓所を詣り、そこに教会を建てたという。サンティアゴ・デ・コンポステーラという町の名は、ラテン語で「星の野原」を意味するカンポ・ステーラ(Campus Stellae)、あるいは墓所を意味するコンポシトゥーム(Compositum)にちなみ、アルフォンソ2世が命名したそうだ。


カテドラルの北側を通り、オブラドイロ広場に向かう

 聖ヤコブの墓所が「発見」されたその当時、イベリア半島はイスラーム勢力のウマイヤ朝を南へ追いやるレコンキスタの最中であった。聖ヤコブの墓所の「発見」はレコンキスタを推し進める大義名分となり、また戦うキリスト教徒の守護聖人として人々の心の拠り所となった。その後、キリスト教徒がイベリア半島北部を奪還して情勢が安定すると、かつてのローマ帝国が築いたローマ街道を利用して巡礼路が整備され、サンティアゴへの巡礼が盛んになった。

 中世から現在まで1000年以上、数多くの人々が目指し、歩いてきたサンティアゴ・デ・コンポステーラ。今、まさに、私はそこへ到着しようとしているのである。石畳を一歩一歩踏み締めつつ、傾斜の緩い坂道を下って行く。カテドラル横のゲートを潜り――そして私はカテドラルの正面のオブラドイロ広場に出た。


到着! サンティアゴ・デ・コンポステーラ!

 オブラドイロ広場では、数多くの巡礼者たちがサンティアゴへの到着を祝福し合っていた。あちらこちらから絶え間なく歓声が上がり、中には喜びのあまり石畳を転げ回っている人もいた。空高く屹立するカテドラルの前では、皆、代わる代わる記念写真を撮っている。私もまた近くにいた巡礼者にシャッターを頼み、写真を撮って貰った。

 私はしばらくカテドラルのファサードを眺めたのち、正面の階段を上がって栄光の門(Portico de la Goloria)から堂内へと入り、ゆっくりと祭壇の前まで進んだ。レタブロ(飾り衝立)の中央にたたずむ聖ヤコブの像に真向い、サンティアゴまで歩き通せた事へのお礼と感謝を心の中で述べる。


カテドラルのレタブロと聖ヤコブ像

 私は類稀なる達成感を胸に、教会の長椅子に座って休憩した。ひんやりと涼しい堂内の空気に体の熱が奪われ気持ちが落ち着いてくると、そういえば巡礼事務所に行き到着の手続きをしなければならないという事を思い出した。

 とは言うものの、肝心の巡礼事務所がどこにあるのか分からない。カテドラルの右翼、南側の入口近くに案内のカウンターがあったので、そこのお姉さんに巡礼事務所の位置を聞いた。どうやら、ここからそう遠くない場所にあるらしい。

 それでは巡礼事務所に向かおうかとカテドラルを出ようとしたその時、突如として「タケ!」と私を呼ぶ声がした。驚いてその声の方に顔を向けると――そこにはなんと、イラゴ峠越えの前後でお世話になったキムさんご夫妻の姿があった。思わぬ再会に私は思わず破顔し、「久しぶり!」と固い握手を交わす。キムさんご夫妻もまた、無事サンティアゴに到着していたのだ。


カテドラルで再会したキムさんご夫妻

 お二人は穏やかな表情で私の到着を喜んでくれた。話を伺うと、どうやら私よりも一足早く、昨日サンティアゴに到着したらしい。今日はサンティアゴを観光し、明日はバスでフィステーラ(Fisterra)に行く予定との事である。

 フィステーラとは、サンティアゴからさらに西へ約90km行った所にあるスペイン最西端の岬である。アメリカ大陸が発見されるまで、フィステーラ岬はまさに地の果てであり、そこは生と死の境であると考えられていた。サンティアゴに到着した巡礼者たちは、さらに三日歩いてフィステーラへと赴き、その海岸で巡礼中に身に着けていた衣服をすべて燃やし、生まれ変わりを体現していたそうだ。

 その伝統に則り、今もなおフィステーラまで歩く巡礼者は多い。フランスの「ル・ピュイの道」でお世話になったジョン&マイティご夫妻も、当然のようにフィステーラまで歩くと言っていた。またフィステーラへはサンティアゴからバスも出ているので、キムさんご夫妻のように、歩くとはいかないまでも、巡礼の締めくくりとして訪れる人が多いようだ。

 ジョンさんからフィステーラのついての話を聞いたその時は、私もまたその伝統に則ってフィステーラまで歩こうと考えていたのだが、スペインに入ってから巡礼のペースがかなり落ちたという事もあり、日数が足らず断念せざるを得なくなってしまった。まぁ、多少やり残した事がある方が、また来ようという動機になるし、それはそれで良いだろう。


キムさん夫妻と別れ、巡礼事務所にやってきた


到着手続きを待つ行列に並ぶ

 案内のお姉さんに教えて貰った通り、巡礼事務所はカテドラルの南側から伸びる路地の入口付近にあった。昼過ぎという時間は巡礼者が到着するピークらしく、巡礼事務所には長蛇の列ができていた。私はとりあえずその最後尾に並び、順番が来るのを待つ。

 30分程で私の番になり、案内の人に促されるまま窓口へ向かった。窓口のおばさんが差し出した申請書に名前と国籍、出発地点を書き、それといくつか並ぶ「巡礼の動機」の選択肢にチェックを入れる。この「巡礼の動機」は結構重要らしく、「宗教」か「精神的なもの」を選ばなくては「巡礼証明書」は発行して貰えないとKさんから聞いていた。

 私はキリスト教徒ではないが、キリスト教の教えや巡礼の精神には共感できる部分も多いし、キリスト教の信仰に触れて精神的なものを得たいと思っていたので、その項目にチェックを入れて申請書をおばさんに渡した。おばさんは申請書と4冊の巡礼手帳をしばらく確認し、そして巡礼証明書を発行してくれた。


賞状のような立派な巡礼証明書である

 巡礼証明書の発行を含め、これらの到着手続きは全て無料だが、さすがにこれだけ立派な証明書を頂いておいて何もせずに立ち去るのもなんなので、傍らに置いてあった募金箱に余っていた小銭を入れてから出た。

 せっかく発行して頂いた巡礼証明書であるが、そのまま持ち歩いてはくしゃくしゃになってしまう。巡礼事務所の周囲には土産物屋が多く、それらのお店では巡礼証明書を丸めて納める為の筒が売られていたので購入した。料金は1ユーロ。中にはラミネート加工をしてくれる店もあるそうなので、丸めたくない場合にはそちらを利用すると良いだろう。

 さて、お次は宿の確保である。サンティアゴは大きな町なので、行き当たりばったりで宿を見つける事は難しい。しかし大きな町すぎて、観光案内所がどこにあるのかすらも分からない。こりゃ困ったなぁとしばらく途方に暮れていたが、そういえば旧市街に入る直前、アルベルゲの案内板を見かけた事を思い出した。


案内板の先にあった、アルベルゲ・セミナリオ・メノール

 私は少しだけ巡礼路を戻り、その案内板を確認して標識が指し示す方向へと進んで行くと、まるで大学の校舎か県庁かといった感じの巨大な建物が姿を現した。どうやらこれがアルベルゲのようである。セミナリオという名前が付いている事から察するに、元は修道院の学校だったのだろう。

 宿泊費は12ユーロと、巡礼路上のアルベルゲと比較してやや高目な値段設定である。5ユーロ足して17ユーロ払えば個室に泊まる事もできるようだが、私はドミトリーのベッドを確保した。建物が大きく、しかもベッドルームは4階なので階段を上るのが大変だったものの、二段ベッドではない普通のベッドで、しかも鍵付きのロッカーが用意されていた。シャワーの数も多い。それなりに快適のように思えたので、私はここに3泊する事にした。


サンティアゴの旧市街を軽く散策する

 いつものようにシャワーと洗濯を済ませ、サンティアゴの旧市街をぶらぶら散策した。バルでビールを飲みながら、iPhoneで日本の皆さんにサンティアゴへの到着を伝える。数多くの方々から「おめでとう」とのメッセージを頂き、私は恐悦至極の思いであった。

 時間も夕方となり、そろそろ夕食を食べに宿へ戻ろうかと歩いていると、一組のご夫婦が私の前を横切った。眼鏡を掛け口髭を生やした初老の男性に、やや短めなパーマ頭のご婦人。お二人ともにこやかな表情で、仲良く肩を並べながら歩いていた。そのあまりに見覚えがありすぎる顔ぶれに、私は思わず「あ!」と声を上げた。

 私の声に気付いたのだろう、そのご夫婦もまた私の方を見た。そして次の瞬間に発せられた懐かしい声。ご夫婦が目を見開いて「タケ!」と叫ぶのと同時に、私もまた「ジョン! マイティ!」と叫んでいた。まさか、ここで、サンティアゴの町で、再会する事ができるとは。フランスの「ル・ピュイの道」後半、土砂降りの雨が降るアルトエ・ド・ベアムの町で別れて以来、一度もお会いする事がなかったジョン&マイティ夫妻との再会である。


ジョン&マイティ夫妻も無事サンティアゴに到着していたのだ!

 この再会には本当に驚かされた。アルトエの町で最後にお会いした時、ジョンさんはマイティさんが足を怪我したと言って病院を探していた。私は彼らがリタイアしてしまうのではないかと不安に思いつつ、雨が降りしきる巡礼路を進んで行ったのだが、ジョンさんとマイティさんはちょうどその時巡礼路沿いにあった病院へと入っており、その窓から私が通り過ぎて行くのを見ていたそうだ。

 その後の44日間、私は一度もご夫妻とお会いする事が無かったのだが、いつの間にか追い越され、私よりもずっと先を進んでいたようである。お二人は6日前にサンティアゴへ到着し、さらにフィステーラまでも歩き通し、昨日サンティアゴに戻ってきた所だったという。私はスペインの巡礼路では進行速度がかなり遅かったが、お二人はフランスの巡礼路と何ら変わる事無く、日々歩き続けていたのだろう。

 どうやらお二人はレストランへ食事に行く所だったらしく、私も一緒にどうかと誘ってくれた。私は二つ返事でお供させて頂く事にした。二人と共に歩きながら、私はこの再会を心の底から喜んでいる自分に気が付いた。

 このサンティアゴ巡礼において、ジョンさんご夫妻が私に与えた影響は計り知れないものがある。フランスからピレネーを越えてスペインに入り、私は巡礼者の急激な増加と人々の気質の変化にかなりの戸惑いを覚えたが、その根底にあったのはジョンさんご夫婦との比較だったのではないかと思う。巡礼者を見る度に、無意識のうちにジョンさん夫妻と比べてしまい、そこにギャップを感じていたのだ。


ガリシアらしく、魚料理を頂いた


デザートはタルタ・デ・サンティアゴである

 ジョンさんたちと入ったレストランはなかなか有名なお店らしく、手ごろなお値段ながらも非常に美味であった。デザートのタルタ・デ・サンティアゴはサンティアゴの名物で、タルトと言うよりはアーモンド風味のベイクドケーキと言った感じである。会計の時にはレストランのスタンプを巡礼手帳に押して貰ったが、そのスタンプは巡礼者が並ぶデザインで可愛らしかった。

 満腹でレストランを出た私は、すっかり帳が下りた旧市街をジョンさん夫妻と歩いていた。お二人との会話は続き、スペインは暑いと思っていたがむしろ寒かった事や、Kさんは現在「北の道」を歩いている事などを話しつつ路地を行く。ジョンさんたちが泊まっているアルベルゲは私とは別の所だったので、名残惜しくはあったものの、その分岐点で抱擁を交わしてお別れをした。

 私は一人アルベルゲへ向かう道を歩きながら、これまでの巡礼を回顧した。ふと、Kさんが言っていた言葉を思い出す。「――カミーノでは奇跡が起こる」。なるほど、確かにその言葉をまざまざと見せつけられた、私のサンティアゴ巡礼最終日であった。