うきは市筑後吉井

―うきは市筑後吉井―
うきはしちくごよしい

福岡県うきは市
重要伝統的建造物群保存地区 1996年選定 約20.7ヘクタール


 福岡県南東部、筑後平野の東端に位置する吉井の町は、江戸時代から大正時代にかけて作物の集散やそれを用いた商品の生産販売といった商業活動、および「吉井銀(よしいがね)」と呼ばれる金融業によって栄えた在郷町である。戦後には産業構造の変化により町の勢いは衰えるものの、通りには今もなお「居蔵屋」と呼ばれる重厚な塗り篭めの町家が建ち並び、往時の繁栄を伝える町並みが残されている。町の中に複数の水路が巡らされているのも特徴で、その水の流れは農業に使う灌漑用水、町に住む人々の生活用水、町に富をもたらした水運、水車などによる産業活動などといった水と人々の関わりを示しており、また水際に生える木々などと共に町の景観に繊細さを加えている。




大正7年(1918年)に建てられた碓井家住宅
鼠漆喰の重厚な居蔵屋である

 吉井の町が開かれたのは慶長7年(1602年)、久留米藩の城下町である久留米と江戸幕府の直轄地である日田を結ぶ豊後街道の宿場町として町立てされた。しかし吉井は農業用水を確保できず、田畑を作ることができずにいた。寛文3年(1663年)、5人の庄屋は用水路の開削を計画し、自分達で測量と設計を行って久留米藩に開削の許可を嘆願した。藩は許可を出したものの、建設に失敗したら藩に迷惑をかけたことになり磔刑に処すとし、町の入口に5つの磔台を立てた。それを見た人々は「庄屋どんを殺すな」とばかり工事に励み、翌年に予定よりも早く完成したという。10キロメートル上流の長瀬から水を引くこの大石・長野水道は、吉井を久留米藩有数の穀倉地帯に成長させた。




吉井の町を東西に貫通する南新川と水際に鎮座する水神社

 大石・長野水道は農業用水のみならず、水運の便をももたらした。吉井は周辺地域における物産品の集散地となり、在郷町として発展する。水路には唐臼や水車を設置して精米、製粉が行われ、また酒造、製麺、櫨蝋(はぜろう)、菜種油などの産業も発達し、「長者の町」「地主の町」と称される商業都市となった。江戸時代、町家は茅葺のものが主流であったのだが、明治2年(1869年)の蛭子町大火を契機に耐火性に優れた「居蔵屋」が建てられるようになり、また明治43年(1910年)から大正4年(1915年)にかけて行われた豊後街道の拡幅と筑後軌道の敷設による町家の建て直しによって居蔵屋が一気に普及し、塗り篭めの家屋が建ち並ぶ町並みが形成された。




豊後街道(国道210号線)沿い、中町の町並み

 商業や金融業によって莫大な財を成した「分限者どん」たちは、競い合うように贅を尽くした居蔵屋を建てた。居蔵屋は外壁を漆喰で塗り篭めた土蔵造りの一種であり、瓦葺の入母屋屋根で妻入りのものが多く、開口部には鉄製の窓や防火戸を備え、腰を瓦張りの海鼠壁やモルタルで固るなど耐火性を重視した重厚な商家建築である。格子をはめる家、一階軒下の持ち送りに彫刻を施した家、外壁に鏝絵を描く家など、様々な装飾を施し、統一感のある町並みの中に家ごとの個性を見ることができる。大正時代までは隆盛を極めた吉井も、戦後は経済活動が衰退して居蔵屋の数も減ったが、現在も70軒ほどが現存しており、官民一体となって維持が図られている。




「白壁通り」と呼ばれる新町の町並み

 居蔵屋が密集するのは、豊後街道沿いの上町、中町、札ノ辻、下町、天神町、および上町から北へ分岐する新町、蛭子町である。敷地内の建物配置により町家型と屋敷型に分けることができ、そのうち町家型は敷地の間口は狭く、奥行きが長い短冊形の敷地を持つ。通りに面して主屋を建て、中庭を挟んで土蔵や離れなどの附属屋を配すのが一般的だ。主屋の平面は通り土間を通し、三室を一列に並べるものが基本である。一方、屋敷型は通りに面した間口が広く、矩形の敷地となっている。その周囲には塀を巡らせて門を構え、敷地の中央に主屋を配して玄関までの空間に前庭を築き、背後の座敷に面しても庭園を築く。主屋の平面は四つの部屋を田の字に配する四間取りが一般的だ。




現在は「居蔵の館」として活用されている旧松田家住宅
明治時代末期に建てられ、昭和初期に改築された居蔵屋だ

 上町に位置する「松源(まつげん)商店」は元禄3年(1690年)からの歴史を持つ乾物問屋の老舗であり、現存する居蔵屋は昭和3年(1928年)に建てられたものだ。当地の冠婚葬祭にあたっては、まずこの店で諸材料を購入するのがならわしであったという。上町から北へと伸びる通りは「白壁通り」と呼ばれ、路地の東側に居蔵屋が連続して並んでいる。その先に位置する旧松田家住宅は通りに面して居蔵屋の主屋を建てるが、間口の広い敷地に塀と門を設けており、中央に座敷を配すなど屋敷型に近い。さらに東に建つ旧籠田家住宅は敷地の中央に居蔵屋を建てる屋敷型である。元は幕末の文久3年(1863年)に郡役所として建てられ、その後の明治26年(1893年)に増築された。

2014年09月訪問




【アクセス】

JR久大本線「筑後吉井駅」から徒歩約5分。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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