五島列島における瀬戸を介した久賀島及び奈留島の集落景観

―五島列島における瀬戸を介した久賀島及び奈留島の集落景観―
ごとうれっとうにおけるせとをかいしたひさかじまおよびなるしまのしゅうらくけいかん

長崎県五島市
重要文化的景観 2011年選定


 五島列島の主要島のうち、久賀島は久賀湾が大きく切れ込んだ馬蹄型の島である。久賀湾に面した島の内側は湧き水が豊富であり、複数の河川によって形成された緩やかな洪積地が広がることから五島列島では珍しく棚田が営まれている。一方で島の外側は山がそのまま海に沈み込む険しい地形であり、比較的条件の良い浜辺に小規模な集落を形成し、段々畑による耕作や漁業が営まれてきた。また久賀島から奈留瀬戸を挟んで東隣に位置する奈留島もまた複雑に切れ込んだ湾の内外に同様の集落が営まれている。これらの両島には地形や環境に適応した集落の景観が良好に残ることから、久賀島の全域および奈留島北西部の大串集落と江上集落、および周辺海域が国の重要文化的景観に選定されている。




久賀島の中心である久賀集落に存在する旧藤原家住宅
明治20年(1887年)頃の建造で、福江島の武家屋敷を踏襲している

 久賀島と奈留島は古くより日本と大陸を往来する船の寄港地であり、霊亀2年(716年)には久賀島南西部の田ノ浦に遣唐使船が寄港した記録が残されている。また天文16年(1547年)の遣明船では奈留島の奈留神社に能を奉納した記録が残る。江戸時代に入ると両島は福江島を本拠とする五島藩に組み込まれ、島内の開拓が進められた。江戸時代後期の寛政9年(1797年)、領内の更なる開拓を目指した五島藩は大村藩と百姓移住の協定を結ぶ。大村藩領であった西彼杵(にしそのぎ)半島の外海(そとめ)地域には潜伏キリシタンが多く、禁教令の弾圧から逃れるべく五島列島の各所に移住した。久賀島や奈留島もまたその受け入れ先となり、多数の潜伏キリシタンが信仰の自由を求めて移ってきた。




仏教徒集落でありながら潜伏キリシタンが移住してきた大開集落
移住者は狭い谷筋に住居を構えるなど、住み分けがなされていた

 移住してきた潜伏キリシタンは既存集落の縁辺部や、既存集落から離れた場所に集落を拓いた。久賀島においては「大開(おおびらき)」集落が前者の代表例あり、「五輪」集落は後者の代表例だ。大開はもともと他集落の家督相続者になれなかった次男や三男による島内移住によって形成された集落であり、移住者を受け入れやすい土壌があった。島内には既に農業に適した土地がなく、新たな集落の開墾が難しい状態にあったという事情もあり、大開は仏教徒集落でありながら潜伏キリシタンも住むようになった。このように潜伏キリシタンたちは既存の水田の隣に新たな水田を拓いたり、あるいは仏教徒が営んでいた農業や漁業の作業を共同で行うなど、仏教徒と相互扶助の関係を築いて暮らしていた。




禁教期の葺石による墓が残る五輪集落の墓地

 一方で五輪集落は久賀島の外周東側、他の集落とは隔絶された入江に位置している。集落の裏手には江戸時代からの墓地が残されており、禁教期からカトリック復帰に至る墓石形態の変化が確認できる墓地として貴重である。禁教期の墓は小石を葺いただけの質素なもので、墓碑銘などを彫ることはできず近しい親族でしか埋葬者が分からないようになっている。一方で禁教令が解けた後はキリスト教式の墓を作ることができるようになり、伏碑型の墓石に変わっていった。墓地は石積により上下二段に分かれており、そのうち下段の方が古く禁教期のものが多い。上段は比較的新しい墓が多く築かれており、その中央には明治29年(1896年)の銘がある石造の十字架が鎮座する。




明治14年(1881年)建造の浜脇教会を移築した旧五輪教会堂(重要文化財)
リブ・ヴォールト天井の曲面は船大工の技術を応用しているという

 元治2年(1865年)に長崎の大浦天主堂で「信徒発見」が起きると、久賀島の潜伏キリシタンもまた大浦天主堂を訪れて信仰を表明。それまで潜伏キリシタンを黙認していた五島藩は弾圧せざるを得ない状況となり、禁教令が続いた明治元年(1868年)には狭い牢屋に200名もの潜伏キリシタンを閉じ込める「牢屋の窄(さこ)殉教事件」が発生した。こような弾圧を知った欧米国の抗議により、明治政府は明治6年(1873年)に禁教令を解くことになる。久賀島の潜伏キリシタンたちは次々にカトリックへと復帰し、明治14年(1881年)には久賀島初の浜脇教会が建てられた。この時の教会堂は昭和6年(1931年)の建て替えにより五輪集落へと移築され、現在も旧五輪教会堂として現存する。




最も完成度の高い木造ロマネスク様式と評される江上天主堂(重要文化財)
床を上げ、軒に通風孔を設けるなど、湿気の多い谷間の土地に適応している

 奈留島の北西部に位置する大串湾には古来からの仏教徒集落である「大串」があり、その入口に面した入江には外海から移住してきた潜伏キリシタン集落である「江上」が存在する。禁教令が解けた後も、江上集落では弾圧の再開を恐れてしばらく信仰を隠し続けていたが、その後の明治14年(1881年)にフランス人のオーギュスト・ブレル神父が江上集落を訪問したことで洗礼を受け、カトリックへの復帰を果たした。明治30年代には大串湾におけるキビナゴ漁が最盛期を迎えたことにより江上集落は大串集落と共に潤い、明治39年(1906年)に初代の教会堂が建てられた。その後の大正7年(1918年)には教会建築の名手である鉄川与助(てつかわよすけ)により現在の江上天主堂が築かれている。

2018年05月訪問




【アクセス】

<久賀島>
福江島の福江港から高速船で約20分、フェリーで約35分。
福江島の奥浦港からフェリーで約20分。
島内交通はタクシー、乗合タクシー、レンタカー。

<奈留島>
福江島の福江港からフェリーで約30〜45分。
中通島の若松港からフェリーで約50分。
大串・江上集落へは奈留島バス「大串線」で約25〜30分。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。
旧五輪教会堂および江上天主堂の内部拝観は事前予約が必要。

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