埼玉古墳群

―埼玉古墳群―
さきたまこふんぐん

埼玉県行田市
特別史跡 2020年指定


 埼玉県北部の行田市、その中心市街地である旧忍藩の城下町から約2キロメートル南東の田園地帯に位置する「埼玉古墳群」は、古墳時代中期末から終末期(5世紀末〜7世紀初頭)にかけて造成された関東屈指の古墳群である。大宮台地の北西端に、南北約800メートル、東西約500メートルの範囲に渡って8基の前方後円墳、1基の大型円墳、および多数の小型円墳群が密集して築かれており、これは同時期における古墳群として全国的にも突出した規模である。また継続的に築かれた同一形態の前方後円墳およびその出土遺物は、地域首長による支配の在り方やヤマト政権との関わりを紐解く上で極めて重要であり、古墳時代を理解する上で欠かせない古墳群であることから特別史跡に指定された。




浅間塚古墳の墳丘に鎮座する「前玉(さきたま)神社」
埼玉古墳群に関する祭祀にルーツを持つと考えられる

 埼玉古墳群は埼玉県名の由来でもある旧埼玉(さきたま)村に存在しており、武蔵国造であった「笠原直使主(かさはらのあたいおみ)」一族の首長墓でないかと推測されているが定かではない。19世紀初頭に編纂された『新編武蔵風土記稿』に記述が見られるなどその存在は江戸時代から知られており、昭和に入ると多くの考古学者が訪れるようになったが、昭和9年(1934年)に湿地を埋め立てるための土取りによって埼玉古墳群の東にあった若王子古墳が完全に消滅。埼玉古墳群もまた稲荷山古墳の前方部や小型円墳が破壊されるなど遺構の保存問題が発生した。埼玉村の要請によってすぐに保存措置が講じられ、以降は現在に至るまで長きに渡り保存整備や調査研究、活用が進められてきた。




「金錯銘鉄剣」を始めとする出土品は「さきたま史跡の博物館」に展示されている

 埼玉古墳群で最初に築かれた前方後円墳は中期末の「稲荷山古墳」(墳長120メートル)である。後円部墳頂に礫槨と粘土槨の埋葬施設があり、そのうち礫槨から出土した「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」には辛亥年(471年)の銘を含む115文字の金象嵌が施されている。その文面は「乎獲居(ヲワケ)の臣」は「意富比垝(オホヒコ)」を祖とし、代々「杖刀人の首(長)」として「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」(雄略天皇)の政治を補佐してきたという趣旨である。古墳時代の編年研究に欠かせない超一級の資料であり、他の副葬品である画文帯環状乳神獣鏡、帯金具、武具、馬具、工具などと共に『武蔵埼玉稲荷山古墳出土品』として国宝に指定されている。




「将軍山古墳展示館」では横穴式石室を再現したレプリカを見学できる

 稲荷山古墳の周囲には同時期に築かれた小型の円墳が多数点在しており、稲荷山古墳に強く関連するものと考えられている。稲荷山古墳に続く大型前方後円墳は後期前半の「二子山古墳」(墳長132メートル)で、これは武蔵国で最大のものだ。さらには後期後半に築かれた鉄砲山古墳(墳長107メートル)へと続く。これら3基の大型前方後円墳に並行して、やや小ぶりな前方後円墳が5基築かれている。時代順に後期前半の「瓦塚古墳」(墳長73メートル)、それよりもやや遅れる「奥の山古墳」(墳長66メートル)、後期後半の「愛宕山古墳」(墳長54メートル)、ほぼ同じ時期の「将軍山古墳」(墳長90メートル)、終末期初頭の「中の山古墳」(墳長79メートル)と続いている。




外濠の一部を掘り残したブリッジが見られる「瓦塚古墳」

 埼玉古墳群の前方後円墳は、強い規格性を有していることが特徴である。いずれも前方部を南とする主軸方位で揃えられており、このような統一的な方位軸を持つ古墳群は全国的にも稀だ。またすべての前方後円墳は墳丘を石で覆う「葺石」を持たず、盾形ではなく長方形の「周濠」を二重に巡らしている。祭祀の場である「造出(つくりだし)」を設ける場合は必ず墳丘の西側に付き、また少なくとも4基は中堤の一角に外堀に向けた張り出し部を備えるなど、一貫した築造形態を目にすることができる。これは古墳群全体が強い統制のもと規範に沿って築かれたということであり、100メートル級の前方後円墳を頂点とする首長層の階層構造をうかがうことができる。




日本最大の円墳である「丸墓山古墳」
その墳頂部にはかつて石田三成が陣を敷いたと伝わる

 これら8基の前方後円墳と共に、中期末から後期初頭の築造である大型円墳「丸墓山古墳」が存在する。その直径は105メートルと、円墳としては日本最大の規模だ。かつて豊臣秀吉による小田原征伐の際、忍城攻めの総大将を任された石田三成が本陣を構えた場所だと伝わっており、その南側には忍城を水攻めするために築いた堤防「石田堤」も残る。また特別史跡の指定範囲には含まれていないが、鉄砲山古墳の東側には終末期に築かれた円墳である「浅間塚古墳」と、中の山古墳の東側にはそれに続く方墳である「戸場口山古墳」が存在する。これら終末期の2基は、首長墓の形態が前方後円墳から円墳、そして方墳へと変化したことを示しており、埼玉古墳群の終焉を知る上で重要である。

2019年09月訪問
2020年04月再訪問




【アクセス】

JR高崎線「行田駅」から市内循環バス「観光拠点循環コース」で約25分、「埼玉古墳公園前」バス停下車すぐ。
JR高崎線「行田駅」からレンタサイクルで約20分。
秩父鉄道「行田市駅」から徒歩約30分。

【拝観情報】

拝観自由。

<さきたま史跡の博物館>
入場料:200円(将軍山古墳展示館を含む)
開館時間:9時〜16時30分(入場は16時まで)
休館日:月曜日(祝日、振替休日、埼玉県民の日(11月14日)を除く)、12月29日〜1月3日

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【参考文献】

・月刊文化財 令和2年2月(677号)
特別史跡 埼玉古墳群|埼玉県立さきたま史跡の博物館
史跡埼玉古墳群保存活用計画|埼玉県立さきたま史跡の博物館