遍路3日目:御所神社〜鴨の湯(22.5km)






 テントをたたんで荷物をまとめてから、神社の鈴を鳴らして柏手を二回打った。深くお辞儀をし、境内を一晩貸してもらったことへの謝辞を心の中で述べる。

 今朝はあまりすっきりとした目覚めではない。夜中に雨が降ったため、急遽テントを屋根のある場所まで移すという作業を強いられたからだ。しかし社殿の庇はテントを覆うに十分な深さがなく、庇からはみ出た部分に容赦なく雨が当たってバチバチとうるさい。なかなか寝付くことができなかった。

 またこの神社の下には高速道路が通っており、夜中もひっきりなしに車が通っている。そのエンジン音は丘の上の神社にまで響き、これがまた騒音として安眠を妨げた。野宿する場所を選ぶのも、なかなか難しいものである。


これまでと比べて町家型の民家は減り、農家型の民家が多くなった

 あくびを噛み殺しながら遍路道へと戻り、次の札所に向かって歩き始める。雨が降ったため湿度が高く、蒸し暑い。どんよりとした雲が立ち篭める空の下では景色もくすんで見えてしまう。辺りには古い家屋や石仏なども多いというのに、どこかテンションが上がらないでいた。


第8番札所、熊谷寺(くまだにじ)の山門が姿を現した

 淡々と歩き続け、住宅街を抜けると熊谷寺の参道に差し掛かった。石垣が連なるその先に、巨大な二重門が見える。説明版によると江戸時代前期の貞享四年(1687年)に建てられた二王門だという。おぉ、なかなかに古く、立派な建物ではないか。

 その高さは13メートルと、江戸時代に建てられた山門としては四国随一の規模とのことだ。存在感ある威容を前に、私の中の陰鬱とした気分が晴れていく。心が沸き立つのを感じながら、私は二王門を潜り抜けた。


風情ある参道を進んで境内の奥へ


ちょっとした高台の上に本堂と大師堂が建っていた

 時間はちょうど7時。まだ境内に遍路の姿は少なく(とはいえ既に数人はいた)、比較的余裕をもってお参りすることができた。納経所で朱印を貰い、少し休憩してから次の札所へと進む。


田んぼと畑に囲まれた道を行く


道路脇の側溝は、歩き遍路の天敵だ

 昨日から金剛杖を突いてきて、ひとつ分かったことがある。それは、路端の側溝が危険極まりないということだ。意識せずに歩いていると、ついうっかり杖の先が側溝にハマってしまう。体はそのまま進もうとするので、テコの原理で杖がバキッといきかねない。

 これまで幾度となく杖が側溝にはまり、その度に折れそうでヒヤッとした。幸いまだ折れてはいないものの、できるだけ注意を払って歩かねば。

 ちなみに金剛杖は見た目の割にかなり丈夫である。それなりのお値段だっただけあって良い素材を使っているんでしょうな。軽くて丈夫な逸品です。


そうこうしているうちに第9番札所の法輪寺に到着


コンパクトにまとまった寺院である

 第8番所から第9番所までの距離は2.4km。実に30分強の道程だ。少し考え事をしながら歩いていると、あっという間に到着である。

 田んぼの中にポツンと鎮座する法輪寺は、境内を取り囲むように建物が配されており、さほど広くはないものの上品で落ち着いた雰囲気を醸していた。

 とりあえず本堂に線香とローソクに火をつけて読経していると、私の隣にやや大きな袋包みを持ったおじさんが立った。なにやらガサゴソやっていたかと思うと……なんとその袋の中から法螺貝を取り出したではないか。

 般若心経が響く中、おじさんがぶぉーぶぉーと法螺貝を吹く。落ち着いた霊場の雰囲気から一変、なんともシュールな絵面となってしまったが、このような参拝方法もあるのだろうか。遍路のやり方は人それぞれのようである。


法輪寺を後にして少し歩くと、遍路道沿いに小堂が


小堂の脇には、小さな池が水を湛えていた

 このお堂は「小豆洗大師」というらしく、例のごとく空海伝説が残されている。なんでもこの場所で野宿をしていた空海が、小豆粥を作るための水を調達すべく、湧き水を掘り当てたとか。また別の説では、水不足に悩むこの地の人々のために、空海が小豆の洗い水に加持して水を得たという。まぁ、いずれにせよ空海の霊力によって湧いた泉とのことだ。昔は貴重な水源だったのでしょうな。

 さらに歩いていくと、民家の軒先に椅子とテーブルが並べられていた。テーブルの上にはポットやコップが置かれ、綺麗な文字で「お茶の御接待をどうぞ」と書かれた張り紙が。おぉ、これはありがたい。一休みさせて貰うことにしよう。


大変ありがたい心遣いである

 冷たい麦茶を頂いて、心身ともにリフレッシュ。なんとも嬉しい気分になる。こういった人の善意というものは、他人の心にも楽しい気持ちを呼び起こすものだ。正の感情にせよ、負の感情にせよ、感情は人から人へ連鎖する。……などと良く分からない理論を発見しつつ、先へと進む。

 次の札所までの距離は3.8km。法輪を出て1時間強経った10時半頃、第10番札所である切幡寺(きりはたじ)の門前町まできた。ここから山へと入り、333段の石段を上ったところに本堂があるという。


名物なのだろうか、参道沿いにはうどん屋が並んでいた


えっちらほっちら石段を上っていく


山の中腹に本堂と大師堂が並んでいた

 お参りも10回目となると、だいぶ慣れたものである。読経につっかえることも少なくなり、すらすらと唱えることができたように思う。

 お参りを終えて一息つくと、ふと本堂から少し離れたところに多宝塔が建っていることに気が付いた。……いや、上層が円形じゃなく方形だから多宝塔ではないか。珍しい建築だなぁと思いつつ説明版に目を落とすと……これが大変に由緒ある塔で驚いた。


なんと、慶長12年(1607年)に豊臣秀頼が建てたものだという

 関ヶ原の戦いで天下を取った徳川家康は、豊臣方が保有する膨大な財産を浪費させるべく、豊臣秀頼に数多くの寺社を整備させた。この大塔もまたその時に建てられたもので、元は大阪の住吉大社にあったという。

 明治時代に入ると、神仏分離令によって神社から仏教要素が取り除かれた。この大塔もまた明治6年(1874年)に切幡寺へと移されたという。上下層とも方形の二重塔は他に現存せず、極めて貴重。現在は重要文化財に指定されている。

 明治維新の神仏分離令は日本全国の寺社を揺るがした。四国八十八箇所霊場もまた極めて甚大な影響を受けたのだが……その話はまた後ほど。


この大塔からの眺めがすばらしかった

 なおゴールデンウィークの真っただ中ということもあってか、切幡寺の入口では地元の猟友会による炊き出しのお接待が行われていた。ちょうど昼時ということもあり、ありがたくご相伴にあずかる。


猪肉うどんと梅おにぎりのセット
思っていたよりボリュームがあった

 猪肉を食べたのは初めてだが、思っていたほどクセはなく大変おいしく頂けた。豚肉とはちょっと違うけれど、まぁ、豚肉に毛が生えたような味というか。実際、豚に毛が生えたのが猪だし……って、肉はうまいがその例えはうまくないぞ。

 腹が膨れたところで出発だ。これまでは一路西へ西へと向かっていたが、ここにきて進行方向が南へと変わる。次の札所があるのは吉野川を越えた対岸の山裾。その距離は9.3kmと、これまでと比べて少し距離があるものの、エネルギーも補充できたし、なんとか頑張れそうだ。


原っぱにヤギ。除草目的で飼ってるのだろうか


途中の八幡集落には町家が並んでいた


キャベツ畑ではタイヤの付いた机(?)が活躍するらしい

 ヤギやお手製の運搬具など、見慣れないものに目を引かれつつ南へ進む。切幡寺を出発してから一時間弱で吉野川に辿り着いた。その堤防の上に立った私の眼下に見えたのは、沈下橋である。


吉野川に架かる沈下橋を、軽トラが渡っていく

 吉野川は四国三郎との異名を持ち、坂東太郎こと利根川、および筑紫次郎こと筑後川と共に、日本三大暴れ川として知られている。そのような川では、欄干を持つ普通の橋では増水の度に流失してしまい、コストがかさむ。増水時にも流されない、できるだけ抵抗の少ない沈下橋が普及するのも当然の流れだ。

 これまで沈下橋といえば高知県の四万十川のものしか知らなかったが、吉野川もまた沈下橋の多い川だったんだなぁ。私はこのような沈下橋が持つ、ひなびた雰囲気が大好きである。


この風情がたまらない

 沈下橋を渡りつつ写真を取っていると、後ろから歩いてきた中年の男性遍路に追い抜かされた。すれ違いざま、男性は「橋を渡るときは杖を突いちゃダメだよー」と私にいった。……え、橋の上で杖を突いちゃダメなの? なんで?

 おそらく憮然とした顔付きになっていたのだろう、男性はさらに「橋の下で弘法大師が寝ているかもしれないからねー」と付け加える。なるほど、理由はイマイチ分からないが、橋では杖を突いてはいけないというルールがあるのか。


畑が広がる吉野川の川中島を歩く
ここもまた、遍路道沿いには古い道標が残っている


もう一度沈下橋を渡って対岸へ
もちろん、今度は一度も杖を突かなかった

 今でこそ吉野川に沈下橋が架けられているものの、かつては「粟島渡し」と呼ばれる渡し舟で行き来していたそうだ。この辺りは川の流れが速く、渡し賃が高かったそうだが、遍路に限っては無料だったということである。


粟島渡しと光明庵の跡を示す石碑と看板

 また、かつては渡し舟の側に光明庵という寺院があり、こちらも遍路なら無料で泊まることができたらしい。渡し舟が無料だったのもこの寺院や篤志家が寄付をしていたからだそうで、遍路文化を縁の下で支えてきた存在の寺院のようである。今に残っていないのが残念だ。


JR徳島線の線路を潜る
少々分かり辛いが、高架橋は煉瓦を積んで築かれている

 吉野川の堤防を降りて進んで行くと、遍路道の風景は畑から町へと変わっていった。特にJRの線路を越えてからは、より人口密度の高い住宅が続いていた。

 江戸時代以前は撫養街道沿いが地域の幹線だったのだろうが、明治時代に鉄道が敷かれると町場の機能が駅の近隣へと移動し、旧街道は廃れていった。それもまた、撫養街道沿いに古い家屋が多く残る理由のひとつなのだろう。

 さらに南へ進んで鉄道駅から離れていくと、再び家屋の数は減っていった。遠くまで見渡せるようになった遍路道の先に、ふとひとりのおばあちゃんがカートを引いて歩いているのが見えた。なんとなく覚えのあるそのカートは……おぉ、昨日、神社で休憩していた私を追い越していった、あのおばあちゃんじゃないか!


歩く速度が私と同じで、なんとなく一緒に歩くこととなった

 せっかくなので話を聞いてみると、今日は第8番札所からスタートとのこと。私とまったく同じペースである。いや、むしろ私よりも元気に歩いておられるように見える。いやはや、お元気ですなぁ。若輩者が形無しですわ。


結局、第11番札所の藤井寺までご一緒した

 藤井寺に到着したのは16時過ぎ。おばあちゃんと共に本堂と大師堂に参拝し、納経所で朱印を貰う。おばあちゃんは予約してある宿に向かうとのことで、藤井寺の門前で分かれることとなった。

 その後ろ姿を見送りながら、ひとつの不安が私の脳裏によぎった。この藤井寺から次の札所である焼山寺(しょうざんじ)までの道のりは、すべての行程が山道だという。しかもかなり険しいことで知られる難所であり、「遍路ころがし」との異名を持つ遍路道だ。

 いくらお元気とはいえ、腰も曲がっておられるお年である。そんなハードな山道を、カートを引いて登ることなどできるのだろうか。……うーん、難しいような気がする。まぁ、きっと、遍路ころがしはタクシーなどを使って回避するつもりなのだろう。うん、きっとそうだ。そうに違いない。


藤井寺という名の通り、境内は藤の花に彩られていた

 さて、おばあちゃんは宿へと向かったが、私もまた今夜の寝床を確保せねばならない。実をいうと、本日は宿泊地のアテがあった。twitterにお寄せいただいた情報によると、この藤井寺の近くに善根宿(ぜんこんやど)があるという。

 善根宿とは、遍路を無料(あるいは低価格)で泊めてくれる施設のことだ。いわば宿泊場所のお接待である。

 藤井寺から住宅街を歩くこと30分、吉野川市が運営する温泉施設「鴨の湯」に到着した。受付で「遍路なのですが、寝床をお借りしたいのですが」という旨を告げると、お姉さんは建物の隣に位置する小屋に案内してくれた。


鴨の湯が運営する善根宿
びっしりと納め札が貼られていてびっくりするが、宿泊者が残していったものだ

 それは三畳の簡易的な小屋ではあるが、しかし屋根があるところで寝られるだけで万々歳である。しかも無料なのにも関わらず、コンセントが備わっているので携帯等の充電が可能。洗濯機もあり、200円で洗剤を買えば服を洗える。さらには市街地まで自転車まで貸してくれるという、至れり尽くせりな善根宿だ。

 荷物を下ろした私は温泉でひとっ風呂浴び、(一般の入浴料は450円だが、遍路はお接待価格の360円だ)、自転車を借りてスーパーで夕食を購入してきた。


夕食は太巻きと、徳島名産フィッシュカツだ

 フィッシュカツは徳島県ならではのご当地モノで、魚のすり身で作ったカレー味のフライだ。子供のころに駄菓子屋で食べたカツを高級にしたような味である。ピリッと辛く、間違いなくビールに合うであろうが、遍路中は禁酒と決めているのでぐっと我慢。

 お腹もいっぱいになったし、明日も早いので寝るとしよう。宿泊者は私の他には愛想の良いおじさんと二人だけ。これなら窮屈せずに快適に寝られるだろう……と思っていたのだが、寝る直前にしてさらに三人追加。三畳のスペースに男五人で寝ることとなった。

 いや、それでも別に良いのだが、私とおじさんが就寝モードに入っているのにも関わらず三人は会話しているし、さらには地元のおじさんまで現れてお喋りが止まらない。眠いのだけど、寝られない。このままだと寝不足だ。明日の「遍路ころがし」、一体どうなってしまうのだろう。……不安である。