遍路21日目:雪蹊寺〜塚地公園(33.0km)






 まだ薄暗い時間から荷物をまとめ、日の出と共に雪蹊寺の通夜堂を抜け出した。大きな通りに出てそのまま南下し、海岸沿いの道路をまっすぐ東へ進む。桂浜までの道のりは思っていた以上に遠く、しかも最後には坂道を上る必要があった。まったく、早朝から良い運動になったというものだ。


人が誰もいない、早朝の桂浜である

 高知の名所といえば桂浜が筆頭にくるほど有名であるし、昼間は大勢の観光客でごった返すのだろう。しかしさすがに5時半ともなると別らしく、浜辺を行く人影は犬の散歩をしているおじさんくらいなものだ。

 とりあえずベンチに腰掛け、朝食のパンを貪った。黄色い砂浜と青みを増しつつある空を眺めているうちに、昨晩から続くもやもやとして気分が晴れていく。なんだか楽しくなってきた。今日は良い日になりそうだ。


お約束の坂本龍馬像を見上げてから桂浜を出る

 実をいうと、桂浜には高校の修学旅行で来たことがある(四国周遊&広島という実に渋い修学旅行であった)。その時は坂本龍馬がどういう人物なのか具体的には知らず、ただ漠然と幕末に活躍した有名な人という認識でいた気がする。

 薩長同盟の立役者としてあまりに有名な坂本龍馬。しかしそこに至るまでの経緯となると、薩摩の支援を受けて亀山社中を結成し、幕府と対立していた長州に最新式の銃を密輸しており、少々キナ臭い感じだ。海援隊になってからも、いろは丸沈没事件で徳川御三家の紀州藩から莫大な賠償金をせしめるなど、黒い部分がちらほら見えなくもない(2006年に行われたいろは丸の発掘調査では、龍馬側が主張していた積荷の銃は発見されなかったという)。

 まぁ、傑物であることは間違いないだろうし、藩に捕らわれずにやりたいようにやっていたら、いつの間にか偉人に奉り上げられていたといったところだろう。個人的な印象としては、政治家というよりは時勢に乗って会社を興した若き実業家といった感じである。


桂浜から浦戸集落へと下りる


浦戸湾に沿って家屋が並ぶ、元城下町の集落だ

 せっかくなので、桂浜からの帰り道は浦戸集落を経由するルートを歩いてみた。浦戸湾の入口に位置する浦戸は海上交通の要として極めて重要であり、『土佐日記』を記した紀貫之も寄港している。中世には浦戸城が築かれ、四国を統一した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が改修して居城としていた。今でこそ小さな港町といったたたずまいであるが、由緒正しき城下町なのである。

 浦戸集落を抜け、そのまま海岸線に沿って進んでいく。浦戸湾に注ぐ新川川を渡って昨日も歩いた渡船場から続く道と合流し、そのまま直進して雪蹊寺に到着である。時間はジャスト7時。納経所が開くタイミングで戻ってこれた。


それでは改めて、第33番札所の雪蹊寺にお参りである

 寺伝によると、平安時代の弘仁6年(815年)に空海が創建したという。当初は「高福寺」と称し、真言宗の寺院であった。鎌倉時代には仏師の運慶(うんけい)とその嫡男である湛慶(たんけい)が滞在したとされ、運慶は本尊の薬師如来像を、湛慶は毘沙門天像を制作し、その際に寺名を「慶運寺」に改めたという。現在、雪蹊寺に伝わる薬師如来像は運慶ではなく筑後(現在の福岡県)の海覚という仏師によるものだが、毘沙門天像は湛慶の真作であり、いずれも重要文化財に指定されている。

 その後は衰退して廃寺となっていたが、慶長4年(1599年)に長宗我部元親が臨済宗から月峰和尚を招いて再興。元親の法名である「雪蹊恕三(せっけいにょさん)」から雪蹊寺と称し、長宗我部氏の菩提寺に定められた。

 江戸時代には朱子学南学派の道場としても知られ、土佐藩の礎を築いた野中兼山もまたこの寺院で学んだという。しかしながら明治時代に入ると例のごとく廃仏毀釈によって一時的に廃寺となり、現存する建物はすべてそれ以降のものだ。


境内には元親の嫡男である信親(のぶちか)の墓所がある

 天正14年(1586年)に始まった豊臣秀吉の九州征伐では、長宗我部元親は嫡男の信親と共に出陣していた。しかし戸次川の戦いにおいて、秀吉から指揮を任されていた仙石秀久(せんごくひでひさ)があまりに無謀な冬の渡河作戦を決行。島津軍の得意戦術である「釣り野伏せ」にはまって軍勢は壊滅し、あろうことか信親が討死してしまう。

 自慢の息子であった信親を亡くした元親は瞬く間に戦国大名としての覇気を失い、晩年は荒れに荒れていたという。元親の死後は四男の盛親(もりちか)が家督を継いだものの、関ヶ原の戦いで西軍に属した為に改易。一発逆転を狙って大坂の陣に豊臣方として参加したが、善戦むなしく敗北。捕えられて斬首となり、長宗我部家は滅亡した。

 かつて四国を統一した長宗我部元親の隆盛と衰退を伝える雪蹊寺であるが、私にとっては厳しい修行とトイレ掃除の雪蹊寺である。怖そうなお坊さんが出てきたらどうしようとビクビクしつ納経所へ向かったが、対応してくれたのは丁寧な物腰のお母さんであった。

 納経帳をザックにしまって境内を出ると、ちょうど巨大な観光バスが駐車場に入るところであった。まだ8時前だというのに、もう団体さんが動き出しているのか。早いところ次の札所へ向かうとしよう。引き続き、新川川に沿って西へと歩く。


野中兼山が築いた「唐音の切り抜き」を越えた

 江戸時代前期に数多くの土木事業を実施した土佐藩家老の野中兼山は、この先の旧春野町一帯にあたる弘岡平野の灌漑事業も手掛けていた。その際に5年の歳月をかけて築かれたのが新川川であり、中でも一番の難工事だったのは唐音の鳥坂山であった。谷間を長さ100m、高さ30m、幅12mに渡って掘り切っており、それにより弘岡平野と浦戸湾が結ばれ、田畑を潤すと共に高知城下への水運を確保したのだ。

 人力で山を切り崩して運河を通すというのは並大抵の苦労ではないだろう。実際に切り抜きを歩いてみると想像以上に高さがあり、大変な工事であったことが偲ばれる。灌漑と水運を同時に整備する兼山の土木技術はさすがであるが、実際の工事にあたった人夫たちもの努力もまた凄いものだったに違いない。


田園地帯を進み、いくつかの集落を越える


川幅を増した新川川を渡り、さらに西へ歩みを進めた


水路が走る道筋に沿って、農家の家屋が建ち並んでいる

 雪蹊寺を出てから約1時間半。のどかな弘岡平野の田園地帯を歩いていくと、畑の向こうに寺院が見えた。おそらくあれが次の札所なのだろう。……とぼんやり眺めていたら、その裏山のあたりから黒い煙がもくもくと立ち昇り始めた。


突然の黒煙にビックリである

 すわ火事かと思いきや、しばらく待っても騒ぎになる気配はない。そうこうしているうちに煙は収まっていき、何事もなく霧散した。ゴミでも焼いていたのだろうか。何はともあれ、やはりその煙の元が次なる札所であった。私に位置を知らせる為の狼煙を上げてくれたとでも思うことしよう。


第34番札所の種間寺に到着である
キレイに整備された境内だ

 寺伝によると用明天皇(585〜587年)の頃、四天王寺を造営した百済の仏師と寺大工が、帰路の途中に土佐沖で暴風雨に遭い種間寺近くの秋山港に避難した。彼らは海上安全を祈願して約145cmの薬師如来坐像を刻み、本尾山に祀ったという。その後の弘仁年間(810〜824年)に弘法大師空海が訪れその像を本尊として創建したとされる。その際、境内に唐から持ち帰った五穀の種を撒いたことから「種間寺」と名付けられた。

 天暦年間(947〜957年)には村上天皇から「種間」の勅額が下賜されており、江戸時代には土佐藩の庇護を受けて広大な田畑や山林を有していたようだ。しかし種間寺もまた明治維新の廃仏毀釈によって一時的に廃寺となっており、境内に建ち並ぶ堂宇はそれ以降のものだろう。ただし雪蹊寺と同じく仏像は難を逃れており、本尊である薬師如来坐像は平安時代後期のもので重要文化財に指定されている。

 お参りと納経を済ませてから境内を出ようとしたところ、ふと山門の脇に建つ車庫のような建物が目に留まった。一番奥のドアが開け放たれており、中を覗くと畳敷きの休憩所のような部屋である。なるほど、ピンときた。このガレージは通夜堂なのだ。しかも調べてみると布団や水シャワーまでお借りできるとのことで、実に至れり尽くせりである。昨日は少し早目にホテルを出て、ここまでたどり着いていれば良かったか。いやいや、過ぎたることをぐちぐち言ってもしょうがない。気持ちを新たに遍路道を進んでいこう。


引き続き弘岡平野の田園地帯を歩く


舗装された車道ではあるが、道端には古い道標や石仏も見られる

 頻繁に写真を撮っているということもあるのだが、基本的に私は歩くのが遅い。後から来る遍路に次々と抜かされていくのみだ。まぁ、必要以上に先を急いでもしょうがない。天気が良くて気温も結構上がっているし、急ぎすぎたらバテてしまう。


冷たいお茶のお接待を頂きつつ、昔ながらの風情を残す住宅街を行く


石積みの護岸とアーチ橋が目を見張る水路に出た

 ここは新川川における水運の起点とのことで、「新川の落とし」と呼ばれている。石敷きの水路はスロープになっており、ここで物資を落として舟に積み替え、浦戸湾を経由して高知城下に輸送していたのだ。かつては数多くの商人で賑わっていたといい、傍らには水路を整備した野中兼山を祀る春野神社が鎮座している。

 水路に架かる橋は「涼月橋」と称され、元は木製だったそうだが明治30年(1897年)頃に石造で架け替えられ、その後にコンクリートで拡張された。アーチが連続する形状からメガネ橋と呼ばれ親しまれてきたとのことである。

 その独特のフォルムに目を奪われながら涼月橋を渡り、さらに歩いていくと仁淀川の堤防に出た。四万十川、吉野川に次ぐ、四国第三の河川である。しばらく堤防に沿って進んでいき、国道56号線と合流して仁淀川を渡る。


広大な仁淀川を越えると、そこは土佐市だ


橋を渡り切り、堤防に沿って歩いていく

 仁淀川の堤防を下りたところで家電量販店を見かけたので立ち寄ることにした。エネループを一度に四本ずつ充電できる充電器が欲しいのだ。私が持っているものは二本ずつしか充電ができず、しかも時間がかかるので非常に不便なのである。高知市に滞在していた時にも電気屋に足を運んでみたのだが、品薄らしく売り切れていた。ダメもとで店員さんに尋ねてみると……なんと普通に売っているではないか。高知市で手に入りにくいものであっても、隣の土佐市に来れば普通に売っているものなのか。

 無事充電器を購入した私は引き続き遍路道を進もうとしたが……いかんせん、どうにも道が分からない。普段であれば、行き先を示す矢印シールが電柱やガードレールに張られているものなのだが、国道56号線が比較的新しい道路な為か、道筋を示す手がかりが見当たらないのである。途方に暮れた私は、とりあえず国道56号線を道なりに進むことにした。


そのうち遍路道と合流するだろう

 国道56号線は土佐市の中心部にあたる高岡の市街地をぐるりと北へ迂回して通っており、この道を辿っていけば必然的に遍路道を横切るはずだ。その思惑通り、程なくして道標を発見することができた。

 あくまで昔ながらの遍路道を歩くことにこだわる私にしては随分雑なルート取りかと思うかもしれないが、それには少々理由がある。次なる第35番札所の清瀧寺(きよたきじ)は高岡市街地の北西に位置しているのだが、その次の第36番札所、青龍寺(しょうりゅうじ)は南の山を越えたその先にあるのだ。つまり、まずは清瀧寺まで行き、高岡に引き返してきてから改めて南へ向かう、いわゆる「打ち戻り」の区間なのである。

 往路は正しい遍路道を歩かずとも、どうせまた戻ってくるのだから復路で辿れば良いだろう。同じ道を二度歩くというのも面白くないので、ここはあえて新道を行くのである。――というのは建前で、実は昼食を買うお店を探していたのだ。ちょうど良く、遍路道との合流地点付近にスーパーがあったので、おにぎりとアイスを買って一息入れた。


腹を満たしてから、清瀧寺を目指して高岡の町を出る

 国道56号線から離れると、すぐに辺りは田園風景となった。仁淀川の右岸に広がる高岡平野もまた野中兼山によって新田が開発されており、現在は宅地化によって侵食されつつあるものの、それでもいまだに田畑が占める割合は大きい。

 畦道を拡張したような細い路地を歩いていき、高知自動車道の高架をくぐると面前に聳える山の中腹に寺院らしき建物が見えた。あれが清瀧寺に違いない。雪蹊寺、種間寺と平地の寺院が続いていたが、ここにきて再び山の寺院である。早朝から歩き続けていて少々疲れが出てきているし、思わず「山登りかぁ」と呟いてしまう。


まぁ、山頂ではなく中腹なだけマシというものだろう


参道の入口に鎮座する六地蔵
寺の歴史が感じられるたたずまいだ

 清瀧寺への参道は山道であるが、車も通れる舗装路なのでさほど大変なものではない。途中からは車道と分岐して道幅が細くなるものの、それでも昔のままの古道ではなく近代に拡張されたフシがある。お陰で登山という感じは薄いものの、それでも道端に祀られている石仏の数は多く、霊場としての雰囲気が漂っている。


道幅が広くて歩きやすい参道だ


麓から20分程で山門までたどり着いた


潜ろうとすると、龍がにらみを利かせていた

 この龍の天井画は地元高岡の画家である久保南窓(くぼなんそう)が明治33年(1900年)に描いたものだそうだ。どこに立ってもにらまれているように見える、「八方にらみの龍」である。墨で描かれた龍は躍動感があって迫力と緻密さを兼ね備えているが、肝心のおめめが経年によって色あせており、にらまれているという感じはあまりしない。修復が望まれるところである。

 龍に取って食われないよう一礼して山門を潜り、長く急な石段をえっちらほっちら上っていくと、ようやく清瀧寺の堂宇がその姿を現した。


第35番札所、清瀧寺
本堂(右)と大師堂(左)の間にどーんと聳える薬師如来立像が印象的だ

 寺伝によると、奈良時代の養老7年(723年)に行基がこの醫王山(いおうざん)を霊場として感得し、薬師如来像を刻んで堂宇を建てて創建したとされる。当初の寺名は「影山密院(けいさんみついん)繹木寺(たくもくじ)」であった。その後、弘仁年間(810〜824年)に空海がこの地を訪れ、五穀豊穣を祈願して岩の上で十七日間の修法を行った。満願の日に金剛杖で岩を突くと清水が湧き出して鏡のような池になったことから「醫王山鏡池院(きょうちいん)清瀧寺」という現在の寺名に改めたという。

 また貞観3年(861年)には「平城太上天皇の変(薬子の変)」に連座していたことから出家となった平城天皇の第三皇子、高岳親王(たかおかしんのう)が清瀧寺を訪れており、逆修塔(生前に自分を供養するための仏塔)を築いている。

 江戸時代には土佐藩の庇護を受けて寺領も寄進されており、七堂伽藍と十数の末寺を持つ大寺院であった。また醫王山では和紙の原料となる三椏(みつまた)が採れることから製紙業が盛んとなり、三椏をさらして和紙を梳く水の源として信仰を集めてきた。しかし明治の廃仏毀釈によって清瀧寺もまた廃寺となり、明治13年(1880年)に再興されたという。本尊の薬師如来立像は平安時代後期の作で、国指定の重要文化財だ。


境内からは高岡平野を一望できる

 本堂と大師堂でお参りを済ませ、納経所で朱印を頂く。時間を確認すると14時半。次の札所である青龍寺までの距離は約14kmと比較的長く、しかも峠を越えなければならない。今日中に到達するのは不可能だろう。残りの時間は行けるところまで行き、日が暮れたら適当な場所で野宿である。最悪、山の中でテントを張ることになるかもしれない。まぁ、とりあえずは高岡に戻り、スーパーで食料を買い込むのが先だ。

 山門で再び一礼してから境内を出て山道を下る。つい先ほど歩いた道を再び辿り、高岡の町まで引き返す。一度見た景色、しかも車道を歩くのは精神的にしんどいし、なにより楽しみが少ない。できるのであれば、打ち戻りは避けたいものである。


アマサギだろうか、顔の黄色い鳥が水田を飛んでいた

 30分かけて高岡まで戻り、昼食を買ったスーパーで食料を購入した。今度は国道56号線ではなく本来の遍路道を辿り、高岡の中心部まで足を踏み入れる。高岡は高知城下と四万十川河口の土佐中村を繋ぐ中村街道沿いに位置しており、中世より在郷町として発展してきた歴史を持つ町だ。


旧中村街道に連なる商家建築

 町の中心部を貫く旧中村街道には今でも重厚な蔵造の商家が建ち並んでおり、なかなかに驚かされた。商店街として現役なので、改修の手が加えられていたり建て直されているケースも少なくないが、伝統的建造物の現存率は悪くない。

 想定外の古い町並みに歓喜を覚えつつ、旧街道を東へ戻る。さてはて、次の札所へ向かう遍路道はどこから分岐するのだろう。そう思った矢先、十字路の片隅に据えられた道標を発見した。


江戸時代後期、文化5年(1808年)に築かれた道標だ

 「右 清瀧寺道、左 青龍寺道」と刻まれており、どちらに行けば良いのか一目瞭然……と言いたいところであるが、この二寺は字面が非常に似ており間違えやすそうだ。なんせ“さんずい”があるかないかの違いである。「右 三十五番、左 三十六番」と書いた方が分かりやすいのではないかと思うが、いや、似た字面だからこそあえて並べたのかもしれない。実際、「おっ」と目を引いたし。


とにもかくにも、道標に従い左の道を進んでいく

 水路に沿った道をしばらく歩いていくと、南へ向かう県道39号線に合流した。前方に見える小高い山々が近付いていき、やがて谷間の道となる。時間は17時を過ぎ、太陽は既に山の向こうだ。

 さらに進むとすっかり家屋はなくなり山道となった。県道39号線はこのまま直進して塚地トンネルを抜けるのだが、遍路道は塚地峠を越える山道へと向かう。その分岐点には立派なトイレ付きの休憩所があった。滑り台やちょっとした庭園も設えられている公園で、大きな東屋も建っている。おぉ、これは野宿スポットとして申し分がない。


毛布も用意されており、野宿が認められているようだ

 東屋のベンチにザックを下すと、ふと初老の男性に話しかけられた。「今日はここで寝るの?」と聞かれたので、「はい、泊まらせて頂きます」と答える。どうやら近くに住んでいる方のようで、公園の掃除をしていたらしい。最後は「頑張ってね」と一言頂き、車に乗って帰っていった。

 こういった野宿を許容してくれる施設は、人々の常日頃からの努力によって維持されているものである。万が一、遍路の利用によって荒れることなどあったりしたら、野宿が禁止になってしまうかもしれない。それは人々のご好意を無下にすることであるし、また今後歩き始める野宿遍路にとっても申し訳がない。

 できる限りキレイに利用させていただき、ゴミも出さずに持ち帰る。改めて野宿の基本を確認しつつ、東屋にテントを張らせて頂いた。……が、残念ながらこの東屋は老朽化によって平成27年(2015年)に閉鎖されてしまったそうだ。極めて条件の良い野宿スポットだっただけに、復旧が待ち望まれるというものである。