遍路33日目:観自在寺〜道の駅 津島やすらぎの里(28.1km)






 昨夜は他の人と一緒に寝るということもあって、迷惑にならないよう時計のアラームを遅めの6時にセットしていた。しかし身に染み付いた毎日のサイクルは簡単に曲げられないらしく、いつも通り5時には目が覚めてしまった。

 外の水道で顔を洗っていると、白髪のおじいさんも起きてきた。若いお兄さんはまだ寝ているようなので、境内のベンチに座って朝食を取る。……と、どこからともなく読経が聞こえてきた。声の元を辿ってみると、そこには本堂の前に立つおじいさんの姿が。どうやら朝のお勤めをしているらしい。随分と信心深いお人のようだ。


おじいさんの読経が終わり、私もまた軽くお参りをしておいた

 四国八十八箇所霊場の第40番札所にあたる観自在寺は「涅槃の道場」こと伊予国最初の札所であり、また第1番札所の霊山寺から最も離れた札所でもあることから「四国霊場の裏関所」とも呼ばれている。創建は平安時代初期の大同2年(807年)、平城(へいぜい)天皇の勅願を受けた弘法大師空海が一本の霊木から薬師如来像、阿弥陀如来像、十一面観音像の三尊像を刻んで開山したとされる。

 当時この辺りは平城天皇の荘園であり、平城天皇は観自在寺に「平城山」の勅額を下賜すると共に、弟の嵯峨天皇と共に行幸して『一切経』と『大般若経』を奉納したそうだ。そのような歴史もあって、現在も愛南町の中心部一帯は「御荘平城」という地名が使われている。

 お参りを済ませて通夜堂に戻ると、既に若いお兄さんも起きていた。私は手早く荷物をまとめ、三人の中で一番早い6時半に観自在寺を出発した。空には薄雲がかかってはいるが、昨日まで強く吹いていた風はすっかりなくなている。穏やかな一日になりそうだ。


御荘平城の町並みを抜け、国道56号線を進む


町を出ると平坦な道が終わり、アップダウンのある山道となった

 最近は札所間の距離が長い区間が続いているが、この区間もまたしかり。次なる第41番札所までの道のりは50km以上もの距離がある。当然ながら今日中に到着することは不可能なので、まずは宇和島藩のお膝元であった城下町宇和島を目指すこととなる。

 観自在寺から宇和島へと向かうルートは主に三つ、海岸沿いを行く「灘道」、昨日述べた篠山を経由する「篠山道」、そしてその間の山間部を抜ける「中道」だ。現在はほとんどの遍路が国道56号線と被る部分の多い「灘道」を歩いているようだが、江戸時代は宇和島藩の官道であった「中道」が宿毛街道の主要路であったという。しかし現代に入ると「中道」は歴史の中に埋もれてしまい、そのルートも忘れ去られてしまった。最近になって有志の努力により復活を遂げたようだが、残念ながら遍路地図には掲載されていないので、私はおのずと「灘道」を歩くこととなった。

 白髪おじいさんの話によると、次の札所までのちょうど中間にあたる約25kmの地点に温泉施設があるとのことで、今日はそこを宿泊地の最有力候補と決めた。意気揚々と歩き出し、国道56号線を突き進む。


甘夏の無人販売所があったので、一袋買っておく


海を臨む日当たりの良い場所ではホンダワラという海藻を干していた

 ホンダワラは古くより食用や肥料、正月飾りなどとして利用されてきた海藻で、『日本書紀』にも莫告喪(なのりそ)という名で登場している。ただし現在は食用海藻としては一般的ではなくなり、隠岐などの一部地域で食べられるだけとなっているようだ。

 ではなぜここでホンダワラを干しているのかというと、愛南町は近年ホンダワラを使った「藻塩」を生産しているとのことである。日本では平安時代より塩田による製塩が行われてきたが、藻塩の歴史はそれよりも古く『万葉集』にも藻塩焼きの様子が詠まれている。具体的には、海水に漬けたホンダワラを乾燥させることを繰り返し、塩分濃度を高めた「かん水」を煮詰めて作るそうで、塩辛さが少なくまろやかな味わいなのだという。

 残念ながら私はスルーしてしまったが、藻塩を使った大福を作っている和菓子屋もあるそうで、次に来た時にはぜひとも食してみようと思う。


観自在寺から二時間半、9時過ぎに柏という集落にたどり着いた

 柏集落の中心部に差し掛かったところで、遍路道は海岸沿いを行く国道56号線から外れて山へと向かっていった。どうやら「柏坂」という峠道に入るらしい。その標高は460mとのことで、昨日歩いた標高300mの「松尾峠」よりもキツい登山になりそうだ。覚悟を決めつつ、柏川沿いの路地をてくてく歩く。


途中には明治34年(1901年)に築かれた道標も立っていた

 この古めかしい道標は、生涯に渡り280回もの四国遍路を行った中務茂兵衛(なかつかさもへい)によって築かれたものである。昨日の武田徳右衛門と同様、遍路道に数多くの道標を残した四国遍路の功労者だ。

 幕末の弘化2年(1845年)に周防国の庄屋に生まれた茂兵衛は、22歳の時に家を出て四国遍路を開始した。以降、大正11年(1922年) に78歳で亡くなるまで二度と故郷に戻ることなく巡礼を続けたという、他に類を見ない大先達である。

 これらの道標は、茂兵衛が厄年にあたる42歳の時に88回目の巡礼を記念して立て始めたもので、現存するものだけでも230基を数えるというから驚きだ。柏集落のものは184回目の巡礼の際に築かれたものとのことで、柏坂へと向かう右への道案内に加えて「左 舟のりば」とも刻まれている。どうやらかつては宿毛から宇和島まで、経路上の港を経由しながら結ぶ運航があったらしく、険しい峠道を迂回する手段として提示しているのだろう。何も歩くばかりが遍路ではないという、茂兵衛の考え方が感じられる道標だ。


民家の脇から柏坂の登山道へと入る

 山に入る前に空を見上げると、いつの間にか雲の濃度が増していた。梅雨の最中なだけあって、やはり天気は常に下り坂ということなのだろうか。ここからしばらく山の中を歩くようなので、雨にだけは降られたくないものだ。一抹の不安を感じつつ、登山道に足を踏み入れる。


石畳や石垣が多く、いかにも長い間人々が歩いてきた道という趣だ


炭焼き窯の跡らしい石積も残っていた

 他にも路肩にたたずむ遍路墓など随所に人の営みの痕跡が見られ、往時は活気に満ちた街道であったことが偲ばれる。歩いていて発見が多い、楽しい古道ではあるのだが、ここに来てちょっとした問題が生じてきた。傾斜が急な箇所に差し掛かる度に、私の肩にズッシリとした重みがのしかかるのである。原因は、ザックの中の甘夏だ。

 先ほどの無人販売所で購入した甘夏。5個100円と非常に安く、グレープフルーツに近い爽やかな酸味とほのかな苦みで非常にうまいのだが、いかんせん、重い。いつものザックの重量に甘夏の重しが加わり、意外なほど体への負担が増しているのである。早いところ食べてしまうのが吉だろう。

 とりあえず休憩できるような場所を求めて坂道を登っていくと、やがて東屋が姿を現した。山の中にあるにしてはやけに立派な、大きな屋根を持った休憩所である。これはちょうど良いところにあったものだ。ザックを下ろして休憩モードに入ると、東屋の奥に小さな祠が祀られていることに気が付いた。


柳水(やなぎのみず)大師と呼ばれている大師像である


その名の通り、傍らには湧き水が潤いのある音を立てていた

 側に立っていた案内板によると、かつて空海がこの地を通りかかった際、柳の杖を突き立てたところ水が湧き出たという。まぁ、いつもの加持水伝説ではあるが、このような休憩に適した場所に水場があるのは非常にありがたい。冷たい湧き水を心行くまで堪能した私は、再びベンチに腰掛けてザックから甘夏のビニールを取り出した。

 厚めの皮を剥いていると、坂の下から大柄な男性がやってきた。やはりこの東屋は休憩所として最適な場所にあるようで、その男性もまたベンチに荷物を下ろして座る。私が「こんにちは」と挨拶をすると、その顔にはいささか見覚えがあった。確か第36番札所の青龍寺を参拝した後、宇佐大橋を引き返していた際にすれ違った人物である。あと、足摺岬でも顔を見かけた気がする。

 その時は挨拶を交わした程度であるが、こうして向かい合って座っていると、何か会話をしなくてはという義務感が生じてしまう。とりあえず東屋の奥に湧き水があることを伝えるものの、イマイチ反応は薄い。ちょうど甘夏を手にしていたので「おひとついかがですか?」と差し出してみるものの、「いや、結構です」とつれない返事。その人も野宿しながら遍路をしている様子だったので、「ここは屋根もあるし水もあるので野宿に良さそうですね?」と話題を振ってみたのだが、「いや蚊が多すぎるでしょ」と厳しく突っ込こまれた。ちっとも弾まない会話に、何とも言えぬ気まずい空気だけが漂う。結局、私は甘夏を一気に胃の中へと押し込み、早々に東屋を辞去することとなった。


東屋から程なくして車道を横切り、そこからは再び急な坂道となった

 先ほどの東屋が山の中にあるにしてはあまりに立派すぎたので、どうやって資材を運んだのかと疑問に思っていたのだが、東屋から比較的平坦な道を10分程歩いたところでその回答に出くわした。なるほど、すぐ近くまで車両を使える場所にあったのか。

 何だかもやもやとした気分が続いていたものの、一つ謎が解けて胸が少しスッキリした。車道から空を見ると太陽が再び顔を出しており、これなら雨の心配もないだろう。まだ四個残っている甘夏の重さは相変わらずであるが、木漏れ日の差す古道は実に気持ちが良い。私は肩の痛みをなんとか堪えつつ、えっちらほっちら山道を登る。

 坂道を上り詰めると、途端に起伏の少ない平坦な道となった。いつの間にか峠を越えて尾根に差し掛かったようだ。足腰への負担が軽減され、だいぶ楽になった感じである。古そうな石垣や遍路墓を横目に気分良く進んでいくと、ふと遍路道の下へと降りる横道が伸びていた。道標には「清水大師 30m」と記されている。気になったので降りてみると、そこには小堂が建っていた。


ちょっとした平場に鎮座する清水大師

 先ほどの柳水大師と同様、こちらもまた由来を記した案内板が立っていた。なんでもある夏の日、一人の遍路が喉の渇きで意識を失い倒れていたところ、どこからともなく空海が現れて「シキミの根元を掘るように」と告げて立ち去った。その言葉通りにしたところ、清らかな水が湧き出したという。

 また昭和15年頃までは毎年旧暦の7月3日に近隣の力士による奉納相撲が行われ、出店が立つほどの人出で賑わっていたとも記されていた。かつては柳水と共に街道沿いの水場として親しまれていたのだろうが、現在は枯れてしまったのか湧き水は見当たらない。

 在りし日は大勢の人々が行き交ったこの柏坂も、大正8年(1919年)に鳥越隧道が開通したことにより通行人が激減したという。現在は遍路しか歩く者がいない柏坂。その峠を見守る水の枯れた清水大師は、何とも言えぬ侘しさが漂っているように思えた。


清水大師の先にあった広場で少し早めの昼食とする

 この広場には、かつて大きな松の木が聳えていたとのことで、次のような逸話が伝えられている。ある足の不自由な人物が箱車に乗って柏坂を引っ張り上げてもらっていたところ、この場所に差し掛かった際につむじ風が吹き荒れた。大松に押し潰されると思った病人は箱車から逃げ出そうとし、そのはずみで足が治ったという。

 今でこそ広場の周囲は木々によって覆われているが、かつてこの辺りは周辺地域の草刈り場であったそうだ。明治時代には放牧も行われていたとのことで、ここの大松は見晴らしの良い山道のシンボル的な存在だったことだろう。弘法大師ゆかりの日には、地元の人々によってこの場所でお接待も行われていたという。しかしそのような名物松も昭和30年頃に伐採されてしまい、現在は切り株が残るだけである。

 昼食では肩の負担になっていた甘夏を4つ全部平らげた。荷物が軽くなってくれたのは良いのだが、食物繊維たっぷりな房まで丸ごと食べた為か、なんだかお腹がゴロゴロと言いだした。若干の不安の中、歩行再開である。


広場から少し進むと展望台があり、由良半島を一望できた

 この「つわな奥展望台」からの眺めは本当に素晴らしく、先ほどの広場ではなくこちらで昼食にするべきだったかとちょっとだけ後悔である。

 展望台を抜けると、尾根沿いを歩いてきた遍路道は下り坂となった。特にこれといった特徴のない普通の山道ではあるが、道中には街道にまつわる様々な逸話を記した案内板が立てられており、退屈することなく歩くことができた。


未舗装の林道と合流したが、すぐに再び山道へと入った
しかし「HENRO MITI」って、これで通じるのだろうか

 微笑ましいアルファベット表記に和みながら坂を下っていくと、道の両側が急斜面となっている箇所に出た。


いわゆる「馬の背」と呼ばれる、細い尾根道である

 馬の背を通り過ぎ、そこそこ急な坂道を下っていく。その途中には昭和5年(1930年)に築かれた道標が立っていたのだが、左側には「四十番 かんじざい寺」、右側には「四十番 いなり寺」と刻まれていた。次の札所は第41番なのだが、これだとどちらへ進んでも40番ということになってしまう。出来上がった道標を確認すれば間違いに気付くと思うのだが、修正せずにずっとこのままというのもおおらかな話だ。

 さらに進んだところには東屋が建っていた。柳水大師のものとまったく同じ、テントを張れる広さのある東屋である。道標によると茶堂休憩地とのことで、その名の通りかつてはこの場所に茶堂、すなわち地元の人が行事を行ったり、遍路にお茶を接待する為の施設が存在したのだろう。


茶堂休憩地からさらに下ると民家があった

 まだまだ山の中だと思っていただけに、正直言ってこの民家には驚かされた。古い家屋だがちゃんと生活感があり、現役で人が住んでいることが分かる。街道に沿って建てられた家なのだろうが、現在は遍路道を横切るように舗装路が敷かれており、谷の下から車で上って来られるようだ。

 その民家の軒先を通り、未舗装だが車の轍が残る農道を進んでいく。ビニールハウスが連なる畑を抜けると道幅が極端に狭まり、再びの山道となった。とはいえ、遍路道が通る沢には石積みで護岸がされており、斜面にはシイタケのホダ木が並んでいるなど、これまでの山道よりは人の手が入っている印象だ。


柏坂の遍路道もあと一息なのだろう
景色をじっくり味わいながら歩いていくと――


私の苦手なにょろにょろさんが道を横切っていた
完全に横断するのを見届けてから素早く通り過ぎる

 これはおそらくシマヘビだろう。シマヘビはカエルを好んで食べる性質があるそうで、すなわちその餌場である河川や水田に近いところに来ているということだ。やはりもう人里の圏内であることは間違いなさそうだ。


その考え通り、すぐに舗装路に出た

 橋を渡って先へと進もうとしたのだが、その袂には「へんろ椿」なる看板が立っていた。旧津島町指定の天然記念物とのことで、せっかくなので見に行ってみよう。遍路道とは逆の方向へ150m程進み、民家の脇から坂を少し上っていくと、枝を大きく広げたヤブツバキが生えていた。


枝ぶりが見事すぎて、手持ちのレンズでは全容を収めることができない

 その樹高は12mもあり、樹齢は伝承によると300年になるという。「へんろ椿」と呼ばれているのにも理由があり、次のような伝承が残されている。ある年の瀬が迫る雪の日に、遍路道で僧侶が倒れていたので家に保護したのだが、介抱むなしく年明けに息を引き取ってしまう。後日、埋葬しようと布団を取ったところ、なんと僧侶の死体は金銀に変化していた。それを土に埋めたところ椿が生え、二度と掘り返せないように大きく根が張り、現在の巨木になったという。

 遍路道沿いには実に様々な逸話が残されているが、それにしても柏坂はそのような言い伝えがことのほか多い。それだけ語るべき出来事の多い、センセーショナルな峠道だったということだろうか。あるいはこの界隈には話好きな人が多いのか。


へんろ椿を後にして遍路道を先へと進む
細い川が作り出した谷筋に沿って、石垣で築かれた水田が広がっている

 この辺りの遍路道は舗装路ではあるものの、石積みの水田や水路など昔ながらの趣が残っており、実に良い感じの風情である。小さな集落が点在するだけなので車の通りもなく、峠道と変わらぬ楽しさだ。


15分程で細い谷間を抜け、比較的開けた土地に出た
幅を増した芳原川に沿って、酒蔵の土蔵が連なっている


その先で国道56号線と合流……ではなく、道路の下を潜り抜けた


辺りには昔ながらの田園風景が広がっている

 この区間はひたすら芳原川沿いの道である。その景色は一見するとごくごく普通の農村といった感じであるが、よくよく見ると水田の大きさが一枚一枚まちまちで畦も直線的ではなく曲がりくねっている。近現代に圃場整備されていない、昔ながらの水田なのだ。旧街道の道筋に建つ家屋も古い建物が多く、景色全体から醸し出されるひなびた雰囲気にノスタルジーが刺激される。

 さらに30分ぐらい歩いたところで、鴨田という集落に差し掛かった。遍路地図を見ると、芳原川を渡った国道56号線沿いに遍路小屋があるようだ。そろそろ休憩したいと思っていたところなので、利用させて貰うことにしよう、と思ったのだが……。


その遍路小屋は、民家の奥まった場所にあった

 立派な東屋付きの遍路小屋ではあるが、ちょっと入るのに勇気がある立地である。人家の庭を通り抜けなければならず、いささか気が引けるというか、なんというか。

 どうしようかと入口で躊躇っていたところ、ふと遍路小屋の中に先客がいることに気が付いた。あの大柄な体格は見間違うことはない、柳水大師の休憩所でも一緒になった男性だ。しかもあろうことか、向こうもこちらに気づいて目が合ってしまった。……こうなってしまうと、回れ右というワケにはいかないだろう。おずおずと庭先を横切り、遍路小屋へと入っていく。

 とりあえず挨拶を交わしたものの、やはり会話は弾まない。私は遍路地図を眺めながら、ただひたすら体力と脚力が回復するのを待つ。10分程経ったところで男性が立ち上がり、「それでは」と出発していった。「お気をつけて」とその大きな背中を見送っていると、男性は遍路道ではなく国道56号線の歩道をそのまま歩いていった。なるほど、これまで抜かされた記憶がないのに私の先にいたことが不思議だったが、遍路道ではなく国道56号線を歩いていたのか。

 私はさらに30分程休憩を取ったところでようやく遍路小屋を出発した。随分とゆっくりしてしまったが、この遍路小屋は道路から目立たない位置にある分、意外と居心地が良いのである。これが住めば都というやつか。まぁ、今日の目的地である温泉施設までもうそれほど距離がないし、多少のんびりしても良いだろう。……などと余裕ぶっていると、結局いつも時間がなくなってしまうのだ。


国道56号線から遍路道に戻り、芳原川沿いの遊歩道を進む


その途中、ネギ坊主を干していた

 なぜネギ坊主なんか干しているのかと不思議に思ったが、どうやらこれはネギの種を採っているようである。青いネギ坊主を数日乾燥させると、実がはじけて種がこぼれるとのことだ。なるほど、確かに新聞紙の上にはゴマのような黒い種が点々と見える。ネギの採種とはこのようにやるものなのか。

 程なくして遊歩道は終わり、国道56号線と合流した。遍路道としての魅力は減ったものの、遠景で見る田園風景は変わらず良いものだ。集落は一段高い山裾の傾斜地に密集しており、低地はできるだけ水田にしようという工夫が見られる。この土地利用の在り方も、昔から変わっていないのだろう。

 しばらくすると田園地帯が途切れ、目の前に大きな川が広がった。その川岸に沿って、家屋が連なっている。時間は16時ジャスト、旧津島町の中心市街地である岩松に到着だ。


岩松川と裏山に挟まれたわずかな土地に家屋が並んでいる


伝統的な家屋が多く、なかなかに良い雰囲気だ

 岩松川の河口に位置する岩松は、津島地域における物資の集散地として発展した歴史を持つ河川港の町である。リアス式海岸と山々が連なる津島町は平野部が少ないものの、山間部で生産される木炭や木蝋の原料となるハゼ、海で捕れる鮮魚などの販売により、幕末から昭和初期にかけて繁栄した。昭和初期の小説家「獅子文六(ししぶんろく)」の代表作のひとつ『てんやわんや』の舞台になったことでも有名だ。

 その町並みを歩いてみると、明治から昭和初期にかけて建てられた町家が相当な密度で残っていることに驚かされる。獅子文六が岩松を訪れた終戦直後からあまり変わっていないであろう光景だ。獅子文六が逗留した大畑旅館をはじめとする旅館も数件あり、四国遍路との結び付きも強いのだろう。


江戸時代後期に遡るという、白壁に格子が際立つ西村邸


町並みの奥に見えるユニークな山門の臨江寺
岩松を開き、庄屋を務めた小西家の菩提寺だ

 想像以上の古い町並みに、時間を忘れて散策に没頭してしまう。路地のあちらこちらの風景を写真に撮っているうちに、時間は17時を回ってしまった。そろそろ寝場所の確保をしなければならない頃合いだ。

 かつて河川港だったこともあってか、岩松川の河川敷はかなり広く取られている。その隅っこならあまり目立たないのでテントを張ることができるかとも思ったが、しかしこの河川敷は駐車場としても使われているようだ。寝ているうちに車に轢かれてはたまらないので、予定通りこの先の温泉施設へ向かうことにする。


集落の出口である岩松大橋も素晴らしくレトロ
大正10年(1921年)頃に架けられたコンクリート製の橋だ

 町並みと共にこの橋もまた非常に良いたたずまいで、岩松散策の締めにふさわしい存在といえるだろう。最高の気分で岩松を後にすることができたのだが、極めて残念なことに、この橋は私が四国遍路を終えた直後に撤去されてしまったようだ。確かにかなり老朽化が進んでいるとは思ったが、まさか既に撤去が決まっていたとは夢にも思わなんだ。だが、まぁ、撤去される前に一度でも渡ることができたのは良かったと思う。遍路は人との出会いのみならず、風景との出会いもまた一期一会なのだ。

 岩松大橋の対岸にあったコンビニで夕食を調達し、そのまま国道56号線を北へと進む。15分程歩いたところで「熱田温泉 津島やすらぎの里」という標識が出ていたので、それに従い左折する。緩やかな坂道を上っていくと、道の先に大きな看板が見えてきた。


道の駅も兼ねた、なかなか大きな温泉施設である

 その入口には野宿に最適な東屋があったのだが、到着した時間が遅いこともあって既にテントが張られていた。駐車場には車が多く、平日なのにも関わらずかなりの客が入っているようだ。とりあえず寝床の確保は後回しにし、まずはひとっ風呂浴びることにする。

 サッパリした後には牛乳を頂き、畳敷きの休憩所に寝転んでリラックス。日没を確認してから外に出て、メインの建物とサブの建物を接続する屋根付きの回廊に幕営させていただいた。テントの中で寝袋を広げていると、ふと「すみません」と外から声が掛かった。入口から顔を出すと、立っていたのは40歳ぐらいの男性遍路である。なんとも申し訳なさそうな声で「隣にテント張らせてもらって良いですか?」と聞かれたので、もちろん快諾した。限られた寝床なのだから、できる限りシェアするのが野宿遍路の心得である。

 夕食も終わり、まどろみに誘われてそろそろ寝ようかと思った頃、突然「ドン! ドン! ドン! ドン!」と物凄い爆音が耳をつんざいた。駐車場辺りで和太鼓の演奏が始まったらしい。聞いたところによると、この道の駅には日本一の大きさを誇る大太鼓が存在するらしい。かつて津島町内の神社に樹齢約900年の大楠が聳えていたのだが、平成5年(1993年)の台風で倒れたのでその切り株を使って作られたとのことである。ただしそんな由緒ある太鼓の事などと知らない私は、この演奏が早く終わってほしいと願いつつ、太鼓の振動が空気を震わせて雨を呼んだりしないかと空模様の心配をするだけであった。