遍路39日目:遍路小屋 久万高原〜レストパーク明神(27.4km)






 さすがに標高500mを越えているだけあって、久万高原の朝はかなりの冷え込み具合だ。シャツにトレーナーにレインウェアと手持ちの服をすべて着込んだフル装備なのにも関わらず、それでもなお肌寒く感じるくらいである。剥き出しの手の指先は少しかじかんでさえいる。これまで四国といえば南国的で温暖な気候だとばかり思っていたが、久万高原はそんな私の身勝手なイメージを粉々に打ち砕くほどの寒冷っぷりである。

 吐いた息で手を温めつつ、テントを片付けて朝食を取る。そうこうしているうちに6時を回ったので、そろそろ大宝寺へと向かうことにする。7時になる前に参拝を済ませ、納経所が開く同時に朱印を頂く寸法だ。


昨日歩いた道を引き返し、第44番札所の大宝寺にやってきた


霧が立ち籠める中、参道を登っていく

 大宝寺は鬱蒼とした森林に囲まれた山の中にあり、まだ朝早く参拝客が他にいないということも相まって実に静謐な雰囲気だ。参道が未舗装というのもまた良い風情を醸している。うーむ、これは想像以上に良い寺ではないか。

 寺伝によると、大宝寺はかつて百済から来た僧侶が山中に十一面観世音菩薩を安置したことに始まるという。その後の大宝元年(701年)に安芸から移ってきた明神右京(みょうじんうきょう)、露口左京(つゆくさうきょう)という猟師の兄弟がその像を発見。奏上を聞いた文武天皇が寺院の建立を命じ、元号にちなんで大宝寺と名付けたという。

 その後の弘仁13年(822年)には弘法大師空海が当地を訪れ、宗派を天台宗から真言宗に改めている。仁平2年(1152年)には大火により全山が焼失したものの、直後の保元年間(1156年〜1159年)に後白河天皇が病気平癒を祈願して七堂伽藍を再建した。天正年間(1573年〜1592年)にも長宗我部元親の進軍による兵火を受けているが、元禄年間(1688年〜1704年)に伊予松山藩主の加藤嘉明(かとうよしあき)らの援助を受けて再興している。以降は江戸時代を通じて伊予松山藩の祈願所とされたものの、明治維新直後の明治7年(1874年)にも火災によって全山が焼失した。

 三度の大火に見舞われてきた歴史を持つ寺院なだけに、現在の大宝寺には近世以前の建物は存在しない。ただし享徳4年(1455年)に築かれた金剛力士像だけは度々の難を逃れており、昭和31年(1956年)に再建された仁王門の中で今もなお睨みを利かせている。


本堂は大正14年(1925年)、大師堂は昭和59年(1984年)の再建だ

 朝霧に包まれた幻想的な雰囲気の中、本堂と大師堂で朝一のお参りを済ませる。読経を終え、時間を確認するとジャスト7時。目論見通り、納経所が開くと同時に朱印を頂くことができた。実に良い出だしである。

 それにしても第43番札所から70kmあまり、いくつもの峠を越えてようやく第44番札所まで辿り着くことができた。室戸岬、足摺岬に次いで、この久万高原。これで四国遍路における三大ロングレンジ区間をすべて踏破できたことになる。ちょうど88ヶ寺の半分ということもあり、四国遍路における大きな山を越えたという感じだ。とはいえまだまだ先は長い。気を引き締めていかなければ。

 次なる第45番札所の岩屋寺は同じく久万高原内に位置するものの、より地形の険しい東の山中に存在するらしい。まずは下畑野川(しもはたのかわ)の河合という集落に出るため、峠御堂(とうのみどう)の峠を越えなければならない。


大宝寺の境内奥から続く、峠御堂の遍路道を行く


峠御堂という名の通り、かつては峠にお堂があったのだろう
残念ながら現存はせず、所々に古い石仏と丁石が残るのみだ

 朝から歩くには少々しんどい急坂をスローペースで登ること約50分、未舗装路の山道を抜けて県道12号線峠御堂トンネルの脇に出た。ちょうどこのトンネルを抜けた反対側には、私が先ほどまで滞在していた遍路小屋が位置している。

 それにしても、峠御堂を越えたこの辺りは随分と山が深くなった印象だ。あの遍路小屋は久万の町からそう離れてはいないのたが、そこからトンネルを一つ抜けただけで景色はすっかり山のそれである。今日もまた、なかなかハードな道のりになりそうだ。


峠御堂トンネルから県道をそのまま東へ進む


少し先で再び未舗装の遍路道に入った
古い遍路墓を横目に山道を下っていく


すると下畑野川の河合集落に辿り着いた


古い町家や道標など、歴史を感じさせるたたずまいだ

 この河合集落は、第44番札所から第45番札所に向かう遍路道と、第45番札所から第46番札所に向かう遍路道の分岐点に位置している。小さな集落ではあるものの、かつては15軒もの遍路宿があり、遍路たちは皆この集落で荷物を預かってもらい岩屋寺へ向かったという。昔から遍路に馴染みのある集落なのだろうが、ほとんどの遍路宿が廃業した現在はひっそり静かな山間村といった趣きだ。


河合集落から小さな川に沿って農道を東へ進む


狩場という集落の畑には「五十四丁」と記された丁石があった
第45番札所までまだだいぶ距離がありそうだ

 そのまま道なりに進んでいくとゴルフ場に差し掛かり、遍路道はその敷地の南端から林の中へ入っていった。昔から遍路たちが歩いてきた歴史のある道のようだが、妙に手が加えられていて古道というより公園の散策路という雰囲気だ。


道は平坦で歩きやすいが、丸石やコンクリートで整備されている

 とはいえ人工物が目立ったのは最初の辺りだけで、途中からは完全に未舗装の古道らしい雰囲気となった。この遍路道の入口付近は沢と並走しているので、ある程度の手を加えなければ道が水にさらわれてぐじゃぐじゃになってしまうのだろう。整備をするからには、それなりの事情があるものなのだ。

 林間の遍路道はちょっとしたアップダウンを繰り返し、小さな畑の縁を沿うように進んでいくと、やがて道が二手に分かれる分岐点に差し掛かった。


そのまま直進するか、右に折れて山へ向かうかの二択である

 左のコースは平坦な道をそのまま進み、川沿いを進んで岩屋寺へと向かう。一方で右のコースは「八丁坂」と呼ばれる急坂を登り、山の尾根伝いに岩屋寺へ到達するものだ。

 この二つのコースのうち、どちらを通って岩屋寺に向かうかは昔から様々な論説があるようだ。四国遍路中興の祖である真念は「左右に道有、右よし。」と述べており、また真念に先立つ江戸時代初期の澄禅も右の道を歩いている。江戸時代後期の『四国遍礼名所図会』にも右が上向道(登り道)と記されているらしい。一方で大宝寺の僧侶であった賢明や、幕末に北海道を開拓したことで知られる松浦武四郎(まつうらたけしろう)は左の道を歩いたとのことだ。

 しばらく遍路地図とにらめっこをした結果、行きは右の八丁坂を使い、帰りは左の川沿いルートで戻ってくることにした。なんでも岩屋寺は昔からの修行場とのことである。八丁坂はかなりキツい坂道らしいが、だからこそ岩屋寺へ続く修行の道としてふさわしいのではないだろうか。……というのは建前で、険しい道の方が古道らしい雰囲気がより色濃く残っているのではないかと思ったのだ。

 またもう一つの理由として、八丁坂を上り詰めた頂上は農祖峠(のうそのとう)を越えて岩屋寺へと直行する「打ち戻りなしルート」との合流点でもある。昨日の三島神社で槇谷集落から岩屋寺までの遍路道は荒れていて危険だという情報を見ていただけに、あわよくばその状態をこの目で確かめてみたいと思った。


というワケで、九十九折の八丁坂をえっちらほっちら登っていく

 さすがは歴史のある道なだけあって、路肩には古めかしい遍路墓がちらほら見られる。ただしその手ごわさも確かなもので、太陽が昇るにつれて気温がぐんぐん増していることもあり既にぶっ倒れそうだ。額から汗をダラダラ流しながら歩くこと約30分。ようやく道がなだらかとなり、八丁坂の頂上に辿り着いた。


くたびれた私を労うかのように、頂上にはベンチと石仏が置かれていた
かつてはこの場所に茶屋があったらしい

 ベンチに座りながら辺りを見回してみると、確かに岩屋寺へと続く東の道の他に、南へと続くもう一本の道が伸びている。これが荒れていて通れないという槇谷集落への道なのだろう。時間を確認するとまだ10時半を過ぎたところ。まだいささか余裕があるし、せっかくなので岩屋寺へと向かう前に槇谷ルートの荒れ具合を確認してみようじゃないか。

 膨れ上がる好奇心を抑えられなかった私は、ベンチから立ち上がると同時に南の道へと足を踏み入れた。危険なので通行しないでくれと警告しているくらいなのだし、よほど酷い廃道寸前的な状態を想像していたのだが……。


多少歩きづらくはあるが、通れないという程ではなかった

 これが想像していたよりだいぶマシな道であった。確かに雑草が茂っていたり、斜面が崩れかけていたりするものの、だが歩くべき道筋はきちんと分かる。路肩には古い石仏も散見され、昨日歩いた畑峠よりはまだちゃんとした遍路道という感じである。

 結論を言えば、通行不能という程ではない。ちゃんと槇谷集落まで歩き通すことができた。斜面の崩壊による落石などに気を付けつつ、足元に注意を払って歩けば問題なく通行できるだろう。まぁ、あくまでも自己責任ではあるが。

 片道15分、往復30分のささやかな冒険を経て、私は無事八丁坂のベンチに戻ってきた。昨日から心の中に立ち篭めていたもやもやが晴れた私は、気分良く岩屋寺への遍路道へと進んでいく。


南の道とは打って変わり、とても歩きやすい尾根道だ


しばらく比較的平坦な道が続いていたが、急に険しい下り坂となった

 岩屋寺は山の中腹にあるようで、尾根から境内へと下る最後のアプローチはこれまたキツい下り坂だ。左右に折れ曲がりながら下る遍路道沿いには、比較的新し目の石仏が点在しており、既に岩屋寺の寺域に入ってることがうかがえる。

 下り坂が終わり、いかにも山寺らしい巨木が林立する道を進んでいく。やがて前方に真っ赤に塗られた巨大な不動明王像が姿を現し、そしてその隣には我が目を疑うようなとんでもない光景が広がっていた。


巨大な岩が真っ二つに割れていたのだ

 見上げると首が痛くなる程に巨大な岩山がパックリと二つに割れたこの場所は、「逼割(せりわり)禅定」という行場らしい。自然にできたものとは思えないくらいに実に不思議な造形である。

 人ひとりが通れるくらいに狭い切れ目を這い進み、鎖と梯子を駆使して這い上がった岩山の頂上には白山権現が祀られているらしい。非常に興味深くはあるが、色々な意味でガチな行場なだけに、入口の門はしっかり施錠されている。岩屋寺の納経所で申し出れば鍵をお借りできるようだが敷居は高そうだ。


さらに山道を下っていくと、ようやく岩屋寺の仁王門に辿り着いた

 大宝寺を出てから5時間弱、ようやく岩屋寺に到着した。道中では遍路の姿をあまり見かけなかったのにも関わらず、岩屋寺の境内は数多くの遍路で賑わっている。私が寄り道をしている間に追い越されたのか、あるいは尾根沿いルートではなく麓からアクセスする人の方が多いのか。麓には駐車場があるので車両を使う遍路は必然的にそちらから来ることになるし、歩き遍路もより平坦な川沿いルートの方を好むのだろう。

 澄禅や真念といった近世四国遍路の先駆者が歩き、かつては岩屋寺への表参道であった尾根沿いルート。今ではすっかり裏門のような扱いになっているこの仁王門も、建立当初は岩屋寺の正門として構えられたのだろう。時代の移り変わりによりアクセスしやすい参道がメインとなるのは仕方のない流れだとは思うが、あの自然の雄大さと畏怖を感じさせる逼割禅定を一目も見ずに帰ってしまうのはもったいないと思う。


巨大な岩山の窪みに堂宇が並ぶ岩屋寺
特異な景観の寺院として、境内一帯が国の名勝に指定されている

 岩屋寺はその名の通り、巨大な岩屋の岸壁にへばりつくように存在する山寺である。かつては法華仙人という女性の行者がこの地に籠って修行をしていたが、弘仁6年(815年)に霊地を探して山に入った弘法大師空海が法華仙人と出会い、法華仙人は空海に帰依すると共に山を空海に献上したという。空海は木造と石造でそれぞれ不動明王像を刻み、木造のものを本尊として本堂に安置、石像のものは奥の院の秘仏として岩屋の奥に祀ったそうだ。

 また鎌倉時代の中期には、伊予国の出身で踊念仏で知られる時宗の開祖、一遍(いっぺん)上人が岩屋寺で修行を行っており、その生涯を描いた「一遍聖絵」にも様子が描かれている。その後は大宝寺の奥の院として信仰を集めてきた。

 明治31年(1898年)には大火によってほとんどの堂宇が焼失しており、故に現存する建物はそれ以降に築かれたものである。しかし大正9年(1920年)に建てられた大師堂は和風の伝統建築を基調としながら西洋建築の手法や意匠をうまく取り入れており、近代の建築意匠史上高い価値があることから平成19年(2007年)国の重要文化財に指定された。


古来の伝統建築にはない意匠に目を見張る、大師堂の軒回り


大師堂より小ぶりな本堂は昭和2年(1927年)の再建だ
右上には仙人窟と呼ばれる岩屋が存在する

 本堂を取り囲む岩壁にはボコボコと複数の岩窟が開いており、それぞれ名前が付けられて信仰の対象となっている。それらの中でも特に目立つのが本堂のすぐ上にある「仙人窟」だ。


せっかくなので上ってみたが、これが思いのほか高くて怖かった

 掛けられていた梯子は木製ながらしっかりした作りで安定していたのだが、それ以上に下から見上げるよりも高さが感じられて恐怖心が煽られるのだ。この仙人窟ですら十分に怖いというのに、かつての僧侶たちはこれよりも高い岩窟でも修行をしていたというから驚きである。岩壁は上にいくにつれオーバーハング上にせり出しているように見えるし、どうやって上ったというのだろう。

 また本堂の横には「穴禅定」と呼ばれる洞窟があり、その最深部からは水が湧き出していた。禅定というからにはこの洞窟も修行に使われているのだろう。逼割禅定といい岩窟群といい、まさに修行をする為にあるような場所である。これまで訪れた四国霊場の中でも指折りのストイックさを感じさせる寺院だ。

 さてはて、お参りをして昼食を取って境内を散策しているうちに時間は13時半を回ってしまった。これはちょっと、少し急がなければマズい感じである。というのも、明日は松山市内のビジネスホテルに予約を入れているのだ。久万高原の北に位置する三坂峠を越えればもう松山平野に入るのだが、この岩屋寺から三坂峠までは約17km。松山市内までとなると50km近くの距離がある。できれば今日中に三坂峠くらいまでは進んでおきたいところだ。


というワケで、岩屋寺を後にするべく麓へと続く石段を下りる
現在の表参道なだけに歩きやすく舗装されているが、やはり急である


直瀬川に沿って通る遍路道をてくてく歩く

 こちらの川沿いルートは八丁坂や尾根道ほど昔の道がそのまま残ってるという感じではなく、また一部は県道12号線と被っている部分もある。だが、まぁ、山道よりは断然歩きやすく楽だ。時間に追われている今の状況としては、かえってありがたいというものである。


岩屋寺と同じく国の名勝に指定されている「古岩屋」地区を抜ける
奇岩奇峰が連なるというが、木々が茂っていて正直分からない


遍路道の途中にあった不動堂
この背後に高さ3mにもなる不動明王像を祀る岩窟があるようだ

 この不動堂から少し進んだところで八丁坂との分岐点に到達した。こうして二つのルートを歩き比べてみると、遍路道としてはやはり八丁坂ルートの方が古道の趣が強く残っていて楽しかったように思う。古岩屋ルートも岩窟などの見どころに立ち寄りながら歩けばまた違ったのだろうが、先を急いでいた為その存在に気づけなかったのが残念だ。まぁ、次に訪れる時の楽しみとして取っておこう。


下畑野川の河合集落まで戻ってきた

 この河合集落から三坂峠までのルートは三通りが存在し、一つ目は峠御堂を引き返して久万の町に戻り、土佐街道を北上するルート。二つ目は千本峠を越えて高野や槻之沢(けやきのさわ)といった山村集落を経由しつつ、土佐街道と合流して北上するルート。三つ目は有枝川を遡り、上畑野川から皿ヶ嶺の山腹を行く六部堂(ろくぶどう)越えで三坂峠へと出るルートだ。

 そのうち最も一般的に使われていたのは千本峠越えのルートであり、かつての遍路たちはこの集落に預けていた荷物を受け取ってから千本峠を越えていった。その遍路道は現在も「四国のみち」に定められており現存はするようだが、だが私の手持ちの遍路地図にはその道筋の記載がなく、必然的に久万の町へと戻ることになった。

 だが私は同じ道を引き返す「打ち戻り」という行為があまり好きではない。なので峠御堂では今朝歩いた峠道を戻るのではなく、峠御堂トンネルを抜けることにした。


車があまり通らない道路だし、このトンネルならイケると思ったが……

 私はトンネルも好きではないが、それは車が通る恐怖と騒音、それと澱んだ空気が大嫌いだからだ。しかしこの県道12号線は車がほとんど通っていない様子だったので、それならば問題ないだろうと挑戦してみたのである。

 だが半分くらい進んだところで、無情にも背後からヘッドライトとエンジン音が迫ってきた。恐怖に怯え竦む私の真横を通り過ぎていったのは軽トラである。まぁ、対向車がなく、大きく避けてくれたのでまだマシだったが、どんなに交通量が少ない道路でもトンネルだけは避けるべきと再認識した次第である。


なんとかトンネルを抜け、昨日泊まった遍路小屋の前から遍路道に入る


昨夜にシャツとタオルを洗った沢を横切り、坂道を下っていく


久万の町に出てからは、旧土佐街道をひたすら北上するのみだ

 できるだけ急いでいたつもりだったのだが、結局久万に戻ったのは17時を回ろうとしていた頃だ。この先はしばらく店の類が存在しないようなので、町を出る前にコンビニで夕食を購入する。あとは日が暮れるまでにできるだけ距離を稼ぎ、なおかつ良い感じの寝床を見つけられれば本日の仕事は終了だ。


旧街道はやがて国道33号線に合流した
道は緩やかな上り坂で、山越えに疲れた体をじわじわ攻める


道路沿いに広がる棚田と山々の風景はなかなかのものだ

 すっかり重くなった脚を何とか動かし、三坂峠に向かって進んでいく。国道ではあるもの片道一車線で歩道も狭く、心身共になかなかにしんどい道路である。金剛杖に体重を預けつつヒーコラ歩いていくと、ふと「レストパーク明神まで2Km」という標識が目に留まった。どうやらこの先に休憩所があるらしい。

 遍路道から少し外れた国道沿いなのでどんなもんかと思いきや、これが実に素晴らしい休憩所であった。屋根付きの大きな東屋があり、トイレと水道も当然の如く完備である。三坂峠までまだ2kmぐらいあるが、もう時間も19時になることだし、今日はこの休憩所にテントを張らせて頂くことにした。


夜中に雨が降っても全く問題なさそうな、頼もしい東屋である

 先ほどのコンビニで買った豚肉弁当と板チョコを食し、明日に備えてそろそろ寝ようかと思ったその矢先、ふと駐車場に一台の車が入ってきた。既に日がどっぷりと暮れており、こんな時間に何の用だろうと少々警戒しつつ様子をうかがっていると、車から一組のご夫婦が下りてきた。私の方を見るなり駆け寄ってきて「木村さんですよね?」と一言。


そう、読者の方が駆け付けて下さったのだ

 ご夫婦は松山在住とのことで、わざわざ三坂峠を越えてまでお越し頂いたことに感謝&恐縮である。しかも「これ、お接待です。よろしければどうぞ」とビニール一杯のお土産まで頂いた。なんだか気を遣わせてしまったようで申し訳なく思いつつも、大変ありがたく受け取らせて頂いた。

 ご夫婦とはこれまでの遍路のことなどについてしばらく話し、それから再び車に乗って帰っていった。私は駐車場から出ていく車に向けて手を振り、それから深々とお辞儀をする。Twitterなどネット越しで頂ける応援も大変ありがたいものであるが、このように実際顔を見に来て下さる方がいらっしゃるというのは、実に幸せなことである。