遍路53日目:観音寺市内ビジネスホテル〜道の駅「ふれあいパークみの」(19.0km)






 ホテルの窓から眺める観音寺の町は、雨に濡れそぼっていて鼠色だ。私が目を覚ました5時にはさほどでなかった雨脚は、6時、7時と時が経つにつれて一段と激しくなってきた。テレビを付けて天気予報を見ると、どうやら大型の低気圧が西から近付いてきているらしい。……まったくもって憂鬱である。心なしか、頭まで痛くなってきたようにも思う。


降りしきる雨を眺めながら、“延泊”という誘惑に心が傾く

 私はベッドの横に設えてある電話の受話器を取ると、フロントと記されている番号を押した。応答した係の人に、「もう一泊したいのですが、できますか?」と訊ねる。一拍おいて返ってきたのは「すみません、あいにく本日は満室でして……」というお断りの言葉であった。さすがは観音寺駅前にある唯一のビジネスホテル。客の入りが良いようだ。

 これはもう、怠けておらずとっとと進めという思し召しだろう。はい、了解。雨に打たれながら頑張らせて頂きますわ。どうやらお大師さまは、涅槃の道場であっても容赦なく修行を与えて下さるようだ。


チェックアウト後も往生際悪くロビーで粘る

 チェックアウト時間である10時になったので部屋を出たものの、やはり雨の中を歩くのは億劫だ。外の様子をうかがいつつロビーをうろうろしていると、やがて雨脚が弱まってきた。良し、出発するタイミングは今しかない!


観音寺市の中心市街地を突っ切る

 なんとも嬉しいことに、私がホテルを出て程なく雨はピタリと止んでくれた。なんという僥倖だろう。あのまま延泊していたら、金と時間を浪費するところであった。満室は試練ではなく福音だったのである。ありがとう、お大師さま。ありがとう、大人気ビジネスホテル。


財田川に架かる橋を渡ると、対岸に大きな鳥居が見えた

 この観音寺市街地の北側に聳えるこんもりとした山は、かの有名な寛永通宝の銭形砂絵を展望できる琴弾山である。銭形砂絵は江戸時代からの歴史を持ち、琴弾山と共に琴弾公園として整備され国の名勝に指定されている。

 そんな琴弾山に鎮座する琴弾八幡宮は、鳥居の大きさからも分かる通り非常に立派で歴史のある神社だ。私が次に目指す第68番札所は、かつてはこの琴弾八幡宮であった。


長い参道の途中に構えられている「木の鳥居」
なんと元暦2年(1185年)に源義経が奉納したものだという

 社伝によると琴弾八幡宮の創建は大宝3年(703年)、日証上人が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る船が漂着しているのを発見した。上人はその老人が八幡大菩薩の化身であると感得し、琴と船を山頂に祀ったことに始まるという。

 その後、大同2年(807年)に四国行脚中の弘法大師空海がこの地を訪れ、琴弾八幡宮の神宮寺として「琴弾山神恵院(じんねいん)」を創建。八幡神の本地仏である阿弥陀如来の像を描いてその本尊とした。


琴弾山の山頂にたたずむ琴弾八幡宮
かつての第68番札所に敬意を表し、丁寧に参拝する

 以降、琴弾八幡宮は四国八十八箇所霊場の第68番札所を担ってきたが、例の如く明治維新の神仏分離令によって神社から仏教的要素がことごとく排除され、琴弾八幡宮もまた札所ではなくなったのだ。

 では現在の第68番札所はどうなっているのかというと、琴弾山の北東麓に第69番札所の観音寺が存在するのだが、その敷地内に移転した旧神宮寺の神恵院が第68番札所となっている。かつて琴弾山の山頂と山麓にひとつずつあった札所が、一箇所にまとめられた形だ。


琴弾山の東麓をぐるっと周っていくと――


すぐに観音寺の山門に辿り着く
観音寺市という地名の由来にもなった古刹である

 観音寺もまた神恵院と同様、琴弾八幡宮の神宮寺として創建された宝光院という寺院をルーツとする。琴弾八幡宮を訪れた空海は、八幡神が乗っていた船が神功皇后にゆかりがあり観音菩薩の化身であると感得。空海は奈良の興福寺を模した七堂伽藍を宝光院に整備し、自ら刻んだ聖観世音菩薩像を本尊として寺名を現在の「七宝山観音寺」に改めたという。

 とまぁ、札所のウンチクはともかく、まずは現第68番札所の神恵院に参拝だ。観音寺の堂宇を横目に神恵院の本堂を探していると、目の中に飛び込んできたのは得体のしれないコンクリートの塊である。


あまりに異質すぎる外観であるが……


恐る恐る階段を上ってみると、普通っぽいお堂が姿を現した

 この奇妙な造りの建物が神恵院の本堂である。なんでも平成14年(2002年)に新築したとのことだが、なかなかに衝撃的な見た目である。第61番札所の香園寺もまた巨大な現代建築の本堂でビックリしたものだが、あちらは境内全体が現代的な雰囲気だったので、寺院としてまだまとまりがあるように思えた。

 しかしながら、こちらは昔ながらの寺院建築が密集する観音寺の境内にあるということもあり、異質感が半端ない。お堂自体は素木を用いた普通な感じのものなのに、なぜ外観をぬりかべお化けのような打ちっ放しのコンクリートにしたのだろう。有機的な集団の中にある無機物という感じで、その存在自体が不気味なものにすら感じられてしまう。


一方、第69番札所観音寺の本堂は安心感がある

 昔からこの場所に境内を構えてきた観音寺は、鎌倉時代の木造釈迦涅槃仏像を始め数多くの寺宝を有している。本堂も室町時代の部材を用いて江戸時代中期の延宝5年(1677年)に建てられたものだ。日本古来の和様を基調としながら大陸由来の禅宗様の特徴も見られる仏堂であり、国の重要文化財に指定されている。また本尊を納める厨子の裏側には「常州下妻庄 貞和三年(1347年)」という南北朝時代にまで遡る落書きが残されており、現存する最古の遍路記録として貴重な史料となっている。

 時を重ねた木造建築の前に立つと、やはり安心感が違うというか、心休まる感じがする。奇抜な現代建築を否定するつもりはないが、観音寺が長きに渡って醸してきた境内の空気感を大事にして欲しかったと思わなくもない。そもそも、同じ境内に二ヶ寺が存在すること自体、いびつで異常な状態なのだろう。神恵院が琴弾山に戻ることはもはや叶わないのか、あるいは望まれていないのだろうか。

 ちなみに堂宇は別々でも納経所はひとつである。一括600円を払って二つの朱印を貰うのだが、それもまたなんだか味気のないものであった。


観音寺からは財田川沿いの県道49号線を行く


途中で堤防上の道に入り、しばらく進んでいくと塔の屋根が見えた


観音寺から1時間弱、第70番札所の本山寺(もとやまじ)に到着である

 この本山寺もまた古代にまで遡る古刹である。寺伝によると、大同2年(807年)に空海が平城天皇の勅願寺として長福寺という名で創建、本堂を一夜にして築いたという、いわゆる「一夜建立」の伝説が語られている。以降、中世には24ヶ坊を有する大寺院に発展した。

 戦国時代には土佐の長宗我部軍による侵攻を受けたものの、兵士が住職を刀にかけて本堂に押し入ったところ、阿弥陀如来像から血が滴っているのを見て驚き、本堂と仁王門は焼かずに退却したと伝わっている。事実、本堂と仁王門は鎌倉時代の正安2年(1300年)に建てられたものが現存しており、そのうち本堂が国宝、仁王門が重要文化財に指定されている。

 江戸時代には丸亀藩主の生駒氏および京極氏の庇護を受けて再興しており、この江戸期に整備された大師堂や鐘楼などの7件が国の有形文化財に登録されている。ちなみに遠くから見えていた本山寺のランドマーク的存在である五重塔は、明治43年(1910年)に完成した近代の建築である。


鎌倉時代にまで遡る本堂と、明治時代に再建された五重塔

 本山寺の本尊は馬頭観音であり、これは四国八十八箇所霊場において唯一だ。馬頭観音は移動や荷運びに使われていた馬を始めとする家畜を加護する仏であり、愛馬の供養や旅の安全を祈願して街道沿いに祀られていることが多い。この本山寺が建っているのは松山から丸亀へと至る旧讃岐街道沿いであり、その立地も関係があったりするのだろうか。

 四国遍路の終盤にして初めて唱える馬頭観音の真言「おん あみりとう どはんば うんぱった そわか」を満を持して詠唱し、本堂での参拝を締めくくる。続けて大師堂でも参拝し、納経所で朱印を貰って本山寺を後にした。


本山寺からは、境内の横を通る旧讃岐街道を北へと進む

 次に目指す第71番札所の弥谷寺(いやだにじ)は、本山寺から約11kmほど北に位置している。旧街道はしばらく門前町のような風情を見せていたが、それもすぐに途切れて国道11号線に合流した。そのまま道なりに進んでいくと、やがて左手に巨大なショッピングセンターが姿を現した。入っているテナントの一覧には「はなまるうどん」の看板も見られる。

 涅槃の道場こと香川県に入った私は、自分にひとつ縛りを課そうと心に決めていた。それは、昼ご飯は必ずうどんにするというものである。せっかく香川県に来たのだから、できるだけ讃岐うどんを食べて帰ろうという実に安直な発想だ。


しかし、その口開けが全国チェーンなのはいかがなものか

 今日は出発が遅かったこともあり、既に14時を回っている。良い感じの店があればそこに入りたかったのだが、残念ながら観音寺からここまでうどんの店を見かけることは全くなかった。さすがにもう腹が減りすぎて限界ということもあり、ここはもう、はなまるうどんにしよう。

 いや、ほら、長崎市民にちゃんぽんのおいしい店を聞くと口をそろえてリンガーハットと答えるらしいし、全国チェーンとはいえはなまるうどんもレベルの高い讃岐うどんを提供してくれるのではないだろうか。


食べたのはもちろん、かけうどんである

 実をいうと、このうどん縛りの裏の理由として、予算的にキツくなってきているという現実がある。香川県ではうどんをリーズナブルな価格で食べられると聞いていたので、下手なスーパーやコンビニの弁当なんかより安くてうまい食事ができるのではないかと思ったのだ。栄養のバランス? そんなのはもう終盤であともう何日もないし、サプリメントでなんとかなるなる。

 いただきますと一口食べてみると、想像よりも柔らかい。うどんといえばコシの強さというような風潮があるし、事実、大阪に勤めていた頃に店で食べていたうどんはとてもコシが強く、噛むとブツッブツッと跳ねていた。しかしこのうどんは噛むと柔らかく千切れ、何とも優しい食感だ。

 少し食べているうちに、天カスやショウガ、ゴマを無料でトッピングできることに気付きいた。それらを加えてみると、あっさりしたうどんに油分と辛みが追加され、実に華やかな味わいと相成った。汁もまさに“ダシ!”という感じの旨味でゴクゴク飲める。なるほど、これが讃岐うどんか。この店には他にもメニューがごちゃごちゃとあるが、讃岐うどんはかけで十分なのである。いやかけこそが讃岐うどんなのだ。


腹を満たしてから歩行再開、国道と旧街道を交互に歩く


それにしても、香川県は溜池が物凄く多い

 瀬戸内気候で雨が少なく、長い川がない香川県は昔から水不足に悩まされてきた。その為、讃岐平野には星の数ほどの溜池が散在している。中でも空海が築いたとされる満濃池は有名だ。――と知識では知っていても、こうして実際に歩いてみると本当に溜池の多さに驚かされる。松山平野なども溜池が多かった印象だが、讃岐平野はそれを遥かに上回る多さである。


旧街道はごく普通の住宅街が続くが、要所に古い道標も残る


水田の中の墓地、物凄く密集していて窮屈そうだ

 途中にあったスーパーで夕食を購入しつつ、古い町家と新しい住宅が交じり合う旧街道をただただ進んでいく。時折雨がパラつく中を2時間ほど歩いた頃、ふと道がYの字に分岐する地点に差し掛かった。


道なりには右側へと続いているのだが、遍路の道標は左を差している

 なるほど、ここは旧讃岐街道と弥谷寺への参詣路の分岐点なのだ。遍路道は北東へと続く旧街道から離れ、北にある弥谷寺へと向かっていくのである。


分岐点の弥谷寺側には複数の石仏が鎮座していた
遍路道はこっちであると強調しているかのようだ


一直線に続く遍路道をてくてく歩く

 時間は既に16時半を回っており、おそらく納経所が閉まる17時までには到着できないだろう。だが、まぁ、問題はない。今日は弥谷寺のすぐ手前にある道の駅「ふれあいパークみの」までにしようと思っていたからだ。先日のお坊さん遍路に書き写させて頂いた野宿ポイントにもバッチリ記されている施設である。

 それにしても、旧讃岐街道には住宅が連なっていたのに対し、旧街道から分岐した弥谷寺への遍路道は田畑に囲まれていて視界が開けている。同じような景色に少し退屈し始めていた頃合いだっただけに、この道の雰囲気の変化はなかなかに嬉しいものである。


古い道標と現代の矢印シールに導かれ、さらに細い路地に入る


水田以外にも、うどんに欠かせない小麦畑も見られた


やがて緩やかな上り坂となり、山寺の門前らしい雰囲気になってきた

 ようやく到着かと安堵していたところ、ふと道端で若い男二人と高齢のおじいさんが言い争っていた。おじいさんが大声を張り上げているのに対し、若者はニヤニヤとからかうような視線をおじいさんに向けている。

 断片的に聞こえてきた会話の内容は、おじいさんの何らかの不手際にかこつけて若者が金銭をタカっているような感じで、おじいさんがそれを拒否しているようだった。詳しい事情が分からない私はその横を通り過ぎることしかできなかったが、弱い者いじめの現場を目撃したようで非常に不愉快な気分にさせられた。


もやもやとした心持ちの中、八丁目大師堂なるお堂を横切る


石仏の並ぶ坂道を上っていくと――


本日の目的地である道の駅「ふれあいパークみの」に到着だ

 時間は17時半。もう少し頑張れば納経所が閉まる前に間に合ったかもしれないが(それにあのような現場を見ることもなかっただろうし)、嫌なことは忘れて明日の参拝に備えるとしよう。

 有難いことに、この道の駅には野宿に最適な屋根付きの野外ステージが隣接していた。既に先客のテントが張られていたものの、広々としたステージはキャパシティ十分なので、私も隣にテントを張らせて頂いた。


野宿におあつらえ向きなステージがある上、眺めも素晴らしい

 建物内には温泉施設もあるとのことだったので汗を流そうと思ったが、入浴料が1500円と聞いて断念した。これまで四国遍路で入ってきた温泉施設の入浴料は300円とか、高くても700円ぐらいだったのに対し、ここは文字通り桁がひとつ違う、実に強気な価格設定だ。しょうがないのでテントに戻り、濡らしたタオルで体を拭く。まぁ、これが私らしい遍路生活ってなもんだ。