遍路55日目:宇多津町内善根宿〜五色台休憩所(21.5km)






 やはり布団は素晴らしい。結局、昨夜ここに泊まった男性遍路は私だけ。男部屋を独り占めできたこともあり、柔らかな布団に包まれながら朝までぐっすり熟睡することができた。

 ただ、昨日の夕方に多度津から丸亀をすっとばして宇多津まで、相当なハイペースで歩いたせいか、脚にはまだ疲れが残っているような感じがする。今日はできるだけのんびり行くとしよう。……って、しょっちゅうそんなことを言っているような気がするが。


善根宿「うたんぐら」さんは寝床を提供して下さったのみならず――


なんと朝食まで出る上、昼食用のおにぎりまで持たせてくれた

 いやはや、これで利用料1000円は逆に申し訳ない感じである。まさに運営されているご夫婦の善意で成り立っている、大変ありがたい善根宿だ。温かな朝食で腹を満たし、ご夫婦に丁重なお礼を申し上げてから、7時ジャストに出発した。

 さてはて、本日まず最初に目指すのは、当然ながら昨日山門を横目にスルーせざるを得なかった第78番札所の郷照寺だ。


宇多津の中心に鎮座する郷照寺、出発から5分足らずで到着である

 郷照寺の起源は奈良時代の神亀2年(725年)、行基が一尺八寸(約54.5cm)の阿弥陀如来像を刻んで本尊とし開山したとされる。当初は「道場寺」という寺名であり、江戸時代の『四国遍礼霊場記』や『四国遍礼名所図会』にもその名で記されている。

 大同2年(807年)には弘法大師空海が当寺を訪れて伽藍を整備し、自身の像を刻んで厄除けの誓願をしたという。その大師像は地元の人々より「厄除うたづ大師」と呼ばれ、現在まで信仰を集めてきた。


厄除けにご利益があるという大師堂
本堂からさらに石段を上がったところにある

 昨日訪れた多度津と同様、宇多津もまた古くからの港町である。四国の玄関口という場所なだけに当寺を訪れている高僧は数多い。仁寿年間(851〜854年)には、京都は醍醐寺の開山として知られる理源大師が籠山しており、また寛和年間(985〜987年)には浄土教の基礎を築いた恵心僧都が釈迦堂を建立して釈迦如来の絵図を納めている。さらに正応元年(1288年)には時宗の開祖である一遍上人が3ヶ月ほど滞在し、踊念仏の道場を開いた。

 天正年間には讃岐に侵攻してきた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)軍の兵火に掛かって伽藍を焼失するものの、その後、江戸時代前期の寛文4年(1664年)に高松藩主の松平頼重(まつだいらよりしげ)によって再興。その際に時宗へと改められ、寺名も現在の郷照寺となった。ちなみに四国八十八箇所霊場において、時宗の寺院はこの郷照寺だけだ。


境内には比較的新しい石仏が林立していて不思議な雰囲気だ

 ズラリと並ぶ石仏もさながら、大師堂の横にぽっかりと口を開けている地下への階段が奇妙な雰囲気を醸していた。入口には「万躰観音洞」と掲げられている。恐る恐る下りてみると突然パッと灯りが付き、そこには壁一面にびっしり納められた、小さな金色の観音像、観音像、観音像……。その荘厳ながらもどこか異様な迫力に圧倒され、私は写真も撮らずに踵を返し、逃げるように地上へ戻ったのであった。

 いやはや、何はともあれ郷照寺での参拝と納経が完了した。改めて宇多津を出発するワケだが、その前に旧街道沿いの町並みを鑑賞しておきたい。

 古くから港町として発展してきた宇多津は、江戸時代になると高松藩の米蔵が置かれ物資の集散地として賑わった。また遠浅の海岸を利用した製塩が行われており、明治から昭和初期にかけて塩の取引で隆盛を極めたことから、立派な商家の建築が今もなお数多く残されている。


通りに沿って、二階を塗り籠めた重厚な商家建築が散在する


郷照寺の影響か、宇多津には寺院がとても多い
旧街道沿いに立派な門を構える家があったが、お寺の庫裏であった


鳥居の代わりなのだろうか、アニミズムを感じさせる石造物だ

 宇多津にあるのは仏教寺院ばかりではなく、町並みの西端にたたずむ丘の上には宇夫階(うぶしな)神社が鎮座遺している。その境内には明治から昭和前期にかけて整備された建物が群として残っており、その多くが国の有形文化財に登録されている。


宇夫階神社の神饌殿(右)および神輿蔵

 中でも本殿は伊勢神宮外宮の多賀宮正殿を分賜されたもので、伊勢神宮と全く違わない神明造で古式ゆかしいたたずまいである。……のだが、その周囲には本殿を覆い隠さんとばかりに木が植えられており、良く見えないのが残念だ。

 宇多津の町並み散策を終えて、そろそろ次の札所を目指そうと旧街道を歩いていたところ、「木村さん!」と自転車に乗った男性に呼び止められた。なんでも丸亀に住んでおられる方とのことで、会社の出勤前にわざわざ駆けつけて下さったという。


大変有難いことに、お接待として食料を頂いた

 非常にありがたい品々であるが、中でも目を引いたのは塩飴だ。今日も暑くなりそうなので塩分補給に役立つと共に、塩の町である宇多津ならではのスペシャル感も相まって、何とも嬉しいお心遣いであった。


宇多津の町を抜け、瀬戸大橋に向かう瀬戸中央自動車道を潜る


その手前には、あまり怖くない感じの不動明王が祀られていた

 なんだかユーモラスな雰囲気の不動明王を横目に高架下の公園を進んでいくと、今度はおじいさんに「お遍路さん!」と呼び止められた。「これ、ボランティアで作っているので、よろしければどうぞ」と、小さなビニールの包みを私に手渡す。中には小さな鈴の付いた貝布のストラップが三つ入っていた。


実にかわいらしい和風のストラップである

 残念ながら私のiPhoneにはストラップを付ける部分がないが、単純にデザインが好みだったのでお礼を言って受け取った。ちなみにこのストラップは四国遍路が終わった後、バイクの鍵に付けて愛用し続けることになる。


瀬戸中央自動車道から旧街道をさらに進んでいくと――


程なくしてアーケードの商店街に突入した
瀬戸大橋で知られる坂出(さかいで)の中心市街地である


アーケードの屋根で隠れているものの、これまた立派な町家が残る


アーケードは坂出の駅前で途切れ、後はひたすら車道を歩く

 坂出市は現在における四国の玄関口ということもあってか、そこそこ大きな町である。旧街道沿いは建物の更新が進んでおり、宇多津などよりは往時の面影が薄い印象だ。とはいえ、よくよく見るとクオリティの高い町家が残っていたりするので油断がならない。


坂出から1.5kmほど進んだところで、遍路道は車道から外れる


その先には「八十蘇場の清水」なる湧き水があった

 なんだか物凄い勢いでドバドバと出ているが、これは今が梅雨の時期だから――というワケではないようで、讃岐には「やそばの水はドンドン落ちる つるべでくんで ヤッコでかやせ」という童歌が伝えられているそうだ。昔から水量の多い湧き水なのだろう。

 また「八十蘇場」という名前には、次のような伝説が語られている。景行天皇の時代、土佐の海に悪魚がおり人々を困らせていた。その討伐を命じられた日本武尊の子である「武殻王(たけかいこおう)」は、八十八人の兵士と共に悪魚を瀬戸内海に追い詰めることに成功。しかしながら海を自由に泳ぎ回る悪魚に苦戦し、逆に船ごと飲み込まれてしまった。武殻王は悪魚の体内で火を焚き、もがき苦しむ悪魚の腹を引き裂いて脱出と討伐に成功したという。

 悪魚の死骸はこの地である福江の浜に流れ着いたものの、兵士たちは毒魚の毒にやられて半死半生である。そこへ甕に湧き水を汲んだ童子が現れ、兵士にその水を飲ませたところ、たちまち元気を取り戻したという。それにより「八十蘇場の水」と呼ばれるようになったそうだ。その後、武殻王は悪魚討伐の褒美として讃岐の土地を与えられ、讃岐に留まる霊王として「讃留霊王(さるれお)」となった。

 私もまた湧き水を飲んでみると、これが冷たくて実にうまい。今日は気温と湿度が高く、既に汗まみれの顔も洗わせていただいた。心身共にリフレッシュ、サッパリ気分で路地を歩いていくと、すぐに神社の境内に差し掛かった。


崇徳院を(すとくいん)祀る「白峰宮(しらみねぐう)」である


推定樹齢500年の楠が生えており、歴史を感じさせられる


その境内の片隅に建つ堂宇が、第79番札所の天皇寺こと高照院だ

 寺伝によると天平年間(729〜749年)に行基が開山し、その後の弘仁年間(810〜824年)に空海が八十蘇場の清水を訪れた折に、本尊の十一面観音像と脇侍の阿弥陀如来像・愛染明王像を刻んで堂宇を整備したという。その際、一人の童子が現れて空海に宝珠を渡したことから「摩尼珠院(まにしゅいん)妙成就寺(みょうじょうじゅじ)」と名付けられた。

 平安時代後期の保元元年(1156年)には、「保元の乱」で敗北した崇徳上皇がこの地に流されてきた。以降、上皇は二度と京に帰ることはなく、8年後の長寛2年(1164年)に46歳で死去している。亡骸の処遇について京からの返事を待つ間、八十蘇場の清水を掛け続けていたところ、21日間経ってもなお上皇の顔はまるで生きているかのようであったそうだ。

 その後に遺体は荼毘に付され、また二条天皇は上皇の霊を鎮めるべく崇徳院を祀る崇徳天皇社を建て、妙成就寺はその永代供養を担う別当寺と定められた。以降、地元の人々により崇徳天皇社は「天皇さん」、妙成就寺は「天皇寺」と呼ばれ親しまれてきたという。江戸時代には寺社が一体のものとして四国遍路の札所を担っていた。

 ところが明治時代になると、例の如く神仏分離令によって妙成就寺は廃寺となり、崇徳天皇社は白峰宮と改められた。その後の明治20年(1887年)に約2km北の林田町にあった高照院が白峰宮の境内へと移転し、天皇寺と称して第79番札所を引き継いでいる。

 神社の境内の片隅を間借りする形で存在する高照院には、ツアーを含む数多くの遍路で賑わっており人の密度がもの凄い。一方で神社の方は社殿の前を通り過ぎるだけで参拝する遍路は稀である。明治に移ってきた寺院よりも古い神社の方が重要な気もするが、この霊場の主体がどこにあるのかを考えつつ、いつものように神社と寺院の両方で参拝を済ませてから札所を後にした。


綾川に架かる橋を渡り、右岸の堤防を進んでいく

 途中、堤防沿いのお宅の庭が休憩所として開放されていたので、ベンチに座って休ませて頂く。時間を確認すると11時半過ぎ。お腹がかなり空いたので、少し早めの昼食とした。


うたんぐらさんで頂いた、おにぎりとバナナである

 普段ならこれで十分なのだが、昨日からの疲れを癒すためのカロリーを欲しているのか、今日の私はいささか食いしん坊モードである。もう少し腹に何か入れておきたいなぁと思いながら歩行を再開したところ、間もなくしてうどん屋の看板が目に留まった。そういえば、私は香川県内においてお昼は必ずうどんを食すという縛りを自分に課していたのであった。というワケで店内に突入だ。


農家の倉庫を改造したような、素朴な見た目の「山下うどん」

 入るのに少しためらわれるような外観であるが、引き戸を開けて中に入ると多くの客でごった返していてビックリした。内部もローカル感溢れるたたずまいで、客も地元の人のようである。値段を見るとかけうどん一玉150円。安さにもビックリしつつ、二玉を受け取りダシを掛ける。席は混み合っているが、なんとかカウンター席を確保した。


もちもちと柔らかいうどんで非常に美味であった

 遍路道沿いにあったから何気なく入ったうどん店ではあるが、想像以上にうまくて三度ビックリした。聞いたところによると有名なお店のようで、なるほど、納得の味である。このようなお店を発見できるとは、昼食をうどん縛りにしていたことが功を奏してくれたようである。


国道11号線に出てちょっとした山を越え、再び細い路地へ入る


民家の窓際で三毛猫が気持ち良さそうに眠っていた

 茅葺屋根の農家や可愛い猫に癒されながら旧街道を進んでいくと、程なくして左手に見覚えのある山門が姿を現した。第80番札所の讃岐国分寺に到着である。言わずと知れた、奈良時代に聖武天皇が全国に築いた国分寺のうちの一つである。


古代の礎石が並ぶ参道の先に、鎌倉時代の本堂(重要文化財)が建つ

 讃岐国分寺は創建当時の礎石がほぼ完全な状態に残っており、遺跡としての保存状態が抜群に良いことから国の特別史跡に指定されている。私は2007年にも特別史跡巡りの一環として訪れており、これで二度目の訪問となった。


僧房跡は覆屋で保護されており、実物の遺構を見学できる

 参拝と納経を済ませ、境内の写真を一通り取ってから山門を後にする。地図を見ると、次なる第81番札所の白峯寺は讃岐国分寺の背後に聳える五色台という山塊に位置している。ちなみに五色台という名称は、赤峯、黄峯、青峯、黒峯、白峯と五色の山が存在することから付けられたもので、白峯寺はその名の通り白峯に位置する寺院である。

 現在時刻は15時ジャスト。今日は山上の東よりにある休憩所辺りで終わりになりそうな感じなので、登山道へ向かう前に近くのドラッグストアで食料を買っておくことにした。


準備を整えてから、いざいざ五色台に突入である


登山道の途中には真っ白な断層が露出していた

 一見するとセメントを吹き付けた法面のような白い岩肌であるが、側に立っていた案内板の解説によると、火山活動により生成されたギョウカイカクレキ岩という地層らしい。その内部には宝石のガーネットが含まれていることもあるそうだ。そんなウンチクにへぇへぇとうなづきながら進んでいくと、間もなくして遍路道は未舗装路の山道へと変化した。


昔のままの古道というより、登山道として整備の手が入ってる印象だ


途中には休憩所も存在するが、野宿に適しているとはいえない


だが、そこからの景色は素晴らしかった

 かなりの急坂を一時間かけて上り詰めると、一本松と呼ばれる県道180号線との交差点に差し掛かった。そこから先の遍路道は起伏の少ない平坦な道となり、それまでの上り坂が嘘のように楽々だ。


遍路道は山の等高線に沿って続いていく


30分程で地蔵尊が鎮座する三叉路に出た

 ここは第81番札所の白峯寺から第82番札所の根香寺(ねごろじ)へ至る遍路道の途中、残り19丁にあたる地点である。ここから西へ行けば白峯寺、東へ行けば根香寺に到達する。

 讃岐国分寺から上ってくる遍路道の結節点として重要な場所のようで、石仏や遍路墓など石造物も数多い。石垣で整地された平場には小堂や休憩所が存在していたと考えられており、また傍らに立つ道標は明治時代に数多くの道標を建立した中務茂兵衛(なかつかさもへい)によるものだ。

 さてはて、現在時刻を確認すると16時半。これから白峯寺まではまだ2.8kmの距離があるので、これはもう納経所が閉まる17時までには間に合わないだろう。となると、第一に優先すべきは寝床の確保である。以前、地図に写させて貰ったお坊さん遍路の野宿ポイント情報によると、ここから根香寺側へ少し進んだ所にトイレ付きの休憩所があるようだ。そこへ行ってみることにしよう。


未舗装の山道には地蔵丁石が残っており、古道の雰囲気が色濃い

 国分寺から一本松へと上がる遍路道では古いモノを見かけなかったが(実はそれには理由がある)、この区間には地蔵丁石を始め数多くの石造物が残っている。古道としての状態も良いことから、五色台に残る遍路道のうちこの白峯寺から根香寺へ続く区間の一部が平成25年(2013年)に『讃岐遍路道』のうち「根香寺道」として国の史跡に指定された。


約600m程で県道180号線に合流し、足尾大明神という神社を横切る


その先にお目当ての休憩所があった
広々とした東屋が備わっており、速攻でテントを張らせてもらう

 テントを張るとちょうど17時。これは良い場所を見つけたとウキウキしながら日没を待っていると、やがて一人の男性遍路がやってきて「僕もここにテント張って良いですか?」と声を掛けてきた。この東屋はテントを一張りしてもまだまだスペースに余裕がある。私は「ええ、どうぞ」と快諾した。

 さらに辺りが暗くなり始めた頃、今度は女性遍路がやってきて「このベンチで寝ても良いですか?」と訊ねてきた。……と、薄暗い中でもその顔には見覚えがある。昨日はうたんぐらで、そして一昨日には道の駅のステージでご一緒した女性であった。

 市街地が多い香川県は寝床確保の激戦区。野宿遍路は誘蛾灯に集まる羽虫の如く、必然的にこのような条件の良い場所に集まってくるのだろう。しかし、まさか三日連続で同じ方とご一緒することになるとは。改めて、香川県における野宿スポットの希少さを思い知らされた次第である。