遍路58日目:鶴亀公園〜大窪寺前の東屋(24.9km)






 朝である。鶴亀公園の池に昇る太陽に目を細めつつ、今日は素晴らしい一日になることを予感する。遍路を始めてから58日、これほど清々しい朝は他にあっただろうか。まさしく結願を迎えるにふさわしい一日の始まりであろう。


これ以上ないくらい、実に美しい朝日であった

 今日はまず、昨日はスルーせざるを得なかった第87番札所の長尾寺に参拝する。朝食を食べて荷物をまとめ、寝床をご一緒していた男性に挨拶をして6時半に鶴亀公園を後にした。約2kmの道のりを北へと引き返し、納経所が開く7時少し前に長尾寺へ到着である。


朝一なだけあって、まだ境内には人が少ない

 寺伝によると長尾寺の創建は奈良時代の天平11年(739年)、この地を訪れた行基が道端の柳に感得。その木で聖観音菩薩像を刻み、本尊として堂宇に安置したことに始まるという。

 その後、弘法大師空海が唐へ留学する前に当寺を訪れ、入唐求法を祈願すべく年頭七夜に渡って護摩祈祷を修法。国家安泰と五穀豊穣を祈願した。帰国した空海は「大日経」を書き写した供養塔を建て、霊場として定められたそうだ。


長尾寺の門前には鎌倉時代の経幢(きょうどう)が2基現存する

 経幢は表面に経文を刻んだ石柱であり、中国では唐から宋の時代に流行したという。日本では鎌倉中期頃から築かれるようになり、長尾寺のものは西側が弘安6年(1283年)、東側は弘安9年(1286年)の建立と非常に古く、2基併せて国の重要文化財に指定されている。

 雲ひとつない青空の下、静かな境内で朝一の参拝を済ませる。やはり結願を前にかなり高揚しているらしく、読経の声もやや張り目である。開いたばかりの納経所で朱印を頂き、意気揚々と山門を後にする。さぁ、いよいよ四国遍路最後の札所、第88番札所の大窪寺に向かうとしようじゃないか。そこまでの距離は約15km。なぁに、これまで歩いてきた道のりに比べれば、大した長さじゃない。


気合を入れ直し、長尾寺の門前から伸びる道を行く


その途中にある宗林寺の門前には「弁慶の馬の墓」なるものが

 なんでも源平合戦の折、武蔵坊弁慶が源義経に従って屋島へ向かっていたその途中、大切にしていた馬が死んでしまったという。そこでこの地にて供養したものだそうだ。

 ちなみに私は写真右の立派な石碑がそれかと勘違いしていたのだが、そうではなくその左にちょこんと鎮座する石を二つ積み重ねたものが馬の墓らしい。花立で見えにくくなっており、そこに墓石があるとは気が付かなかった次第である。


鴨部川を渡って山へと向かう

 この橋を渡った地点は五叉路になっており、遍路道は左斜め前の旧道へと続いている。しかし私はその矢印を見逃してしまい、直進の県道3号線へ進んでしまった。なんだか様子が変だなと地図を確認し、道間違いに気付いたのは1kmほど先へ進んだ後であった。

 昔ながらの遍路道を歩くことにこだわりたい私は、歩いてきた道を引き返して正しい遍路道に入り直す。……もう遍路も最終盤だというのに、いまだにこんな単純なミスをしてしまうとは。最後の最後まで油断大敵である。


単調な車道が続く県道と比べ、旧道には古いものが多くて和む


かつて小豆島肥土山の接待講が常接待していたという「一心庵」


集落の出口には高地蔵が鎮座していた

 台座を含めたら約4mもの高さになるこの地蔵は、側を流れる鴨部川が氾濫しても流されないように高く築かれているという。この場所はちょうど「長尾西」「長尾名」「前山」の境界に位置しており、その旧3ヶ村の庄屋が発起人となって幕末の文久元年(186年)に建立したとのことだ。

 今私が長尾寺から歩いてきたのが「長尾西」、鴨部川を隔てた東側が「長尾名」、そしてここから先が「前山」である。前山という地名の通り、遍路道はいよいよ山間部へと突入する。


旧道から離れて県道3号線を進んでいくと、前方に前山ダムが見えた


その湖畔に沿って歩いていくと――


「おへんろ交流サロン」なる施設があった

 道の駅ながおに隣接しているこの施設は、遍路と地元の人々との交流の場として設けられたそうだ。大して期待もせずに休憩がてら入ってみたのだが、その内部に設けられている「へんろ資料展示室」が物凄く興味深くて楽しめた。

 江戸時代の納札や納経帳を始め、中には明治の大先達である中務茂兵衛(なかつかさもへい)の文章も展示されており、「客引きにつれられて道をはずれないように注意」などと書かれていて面白い。

 他にも遍路に関する様々な品々が展示されており、私がこれまで歩いてきた四国遍路の歴史の重みを感じ取ることができた。ぜひとも結願の前に立ち寄りたい、遍路必見のスポットである。


天明年間(1781年〜1789年)にまで遡る、各時代の納札に大興奮だ

 それにしても、今日もまたカンカン照りで物凄く暑い。自販機で買ったコーラを飲み干し、空のペットボトルをゴミ箱にガコンと捨てる。あまりにも喉が渇きすぎてしまい、これで今朝から4本目のコーラである。頭では飲みすぎだと理解しているのだが、それでも体が欲してしまうのだからしょうがない。

 さてはて、前山ダムから大窪寺の遍路道であるが、現在は大まかに二つのルートが存在する。一つは南東へ一直線に向かって女体山を越える「四国のみち」のルート。もう一つは南の額(がく)峠を越え、国道377号線に沿って進む「旧遍路道」ルートである。

 現在はより距離が短くて眺めの良い「四国のみち」ルートを行く遍路が多いようだが、昔ながらの遍路道を歩きたい私は当然の如く「旧遍路道」ルートを選択することにした。


道の駅から少し戻り、旧遍路道にあたる林道花折線に入る


その少し先に、「花折山へんろ道入口」という看板があった

 遍路地図には載っていないルートであるが、どうやら未舗装の山道が続いているようである。すわ古道かと喜び勇んで足を踏み入れたのだが、実はこれは昔ながらの遍路道ではなく、近年新たに整備されたルートのようである。

 なんでも林道花折線の途中に残土処分場ができてしまい、巨大なトラックが行き来するようになったことから歩行に適した道ではなくなった。そこでその危険な林道を迂回するルートとして、地元の人々が整備したのがこの「花折山へんろ道」だという。


キツい急斜面を尾根まで一気に上がる
尾根沿いには不思議な形をした岩が転がっており神秘的な雰囲気だ

 遍路の安全を願う地元の方々によって拓かれたこのルートは、まさにお接待の精神を体現した遍路道といえるだろう。昔から遍路が歩いてきた歴史のある古道ではないものの、これはこれで歩いて良かったと思わせる遍路道である。


50分程で「花折山へんろ道」を抜け、林道花折線と合流した


さらに進むこと30分、県道3号線に合流し額峠に差し掛かった

 暑い暑いとヒーコラしていた私を見かねたのか、額峠を越えた辺りで空に雲がかかってきた。さらには勢い余ったのか大粒の雨がポツリポツリと。……いや、そこまでしてもらわなくても良かったのだが。狐の嫁入り程度で済んだので幸いである。


額集落には国重要文化財指定の細川家住宅が存在する

 この細川家住宅は江戸時代中期の18世紀初頭まで遡る古民家で、低く葺き下ろした「ツクダレ」と呼ばれる屋根や、竹でできている座敷の床など、香川県東部における山間地の農家としての特色が見られることから国の重要文化財に指定されている。

 残念ながら開いていなかったので内部を拝観することは叶わなかったが、既に12時半を回っていることもあり、その軒下で昼食休憩を取らせて貰うことにした。


今日の昼食はスーパーで買っておいたぶっかけうどんである

 香川県にいる間は昼食を必ずうどんにしようと決めた私であるが、残念ながら大窪寺までの道のりにはうどん屋が一軒も存在しない。そこで苦肉の策として、あらかじめスーパーのうどんを買い込んでおいたのだ。……うどん屋のものと比べたらランクが落ちるのは否めないが、まぁ、とりあえず形だけでもうどん縛りを続行できたので良しとする。


程なく国道377号線と合流し、遍路道は南から東へと進路を変える

 車道の脇には一定距離ごとに大窪寺までの距離を示す丁石地蔵が鎮座しており、さながら結願までのカウントダウンのようである。残り三十三丁の丁石地蔵を通り過ぎたところで、後ろからやってきた車が私の前方で停車した。運転席のパワーウインドウが開くと共にサングラスをかけた男性が顔を出し、「木村さんですか?」と訊ねられた。読者の方が駆けつけて下さったのである。


お接待としてコーラとミネラルウォーターを頂いた

 再び太陽が出てきてアスファルトの照り返しがキツくなっていた頃合いなだけに、これは大変嬉しい差し入れである。ありがたく、本日5本目のコーラを喉に流し込む。キンキンに冷えたコーラは、千金に値するというものだ。

 さらに国道377号線を進んでいくと、残り二十丁の付近で遍路道を示す矢印は国道から外れ、旧道らしき細道へと続いていった。私もまたその矢印に従って進んだのだが、どうもずっと続いていた地蔵丁石が見当たらなくなってしまい、本当にこの道で良いのか不安になる。

 もしやと思い国道に戻ってみると……ビンゴ! 地蔵丁石が続いていたのは矢印が示しているルートではなく、国道の方であった。


最初は矢印に従って細い道を進んでいったが――


結局、地蔵丁石のある国道を行くことにした

 国道は遍路道としての風情は薄いが、やはり地蔵丁石で残りの距離を知ることができるのは歩いていて励みになる。残り十三丁――十二丁――――六丁――――残り三丁!


そこまで来たところで、前方に巨大な二重門が見えた

 紛れもない、ついに私は大窪寺まで来ることができたのだ。思わず破顔し、胸中から歓喜が湧き上がってくる。無意識のうちにカツンカツンと杖を突く音が早まり、一刻も早くその境内に足を踏み入れようとはやってしまう。

 ちなみにこの二重門は駐車場に向けて建てられた新しいもので、実際の山門はそこから坂道を100m程下ったところに位置していた。


一歩一歩、喜びを噛み締めながら石段を上っていく

 大窪寺の創建は奈良時代の養老元年(717年)、この地を訪れた行基が霊夢により感得し、草庵を結んで修行をしたことに始まるという。その後の弘仁7年(816年)には唐から帰国した空海が、奥の院に位置する胎蔵峰の岩窟で虚空蔵求聞持法を修め、谷間の窪地に堂宇を建立。等身大の薬師如来坐像を刻んで本尊とし、唐の師である恵果(けいか)から授かった印度・唐・日本の三国伝来の錫杖を修め、窪地にちなんで大窪寺と命名したとされる。

 大窪寺は早くから女性の入山を認めていたことから女人高野として栄え、最盛期には100をも越える堂宇が建ち並んでいたそうだ。しかし長宗我部元親の四国統一に伴う天正の兵火で被害を受け、また明治33年(1900年)の大火でも焼失しており、元禄年間(1688年〜1704年)の建立である山門以外はそれ以降の再建である。


ついに、ついに――第88番札所の大窪寺に到着である

 ベンチにザックを下ろして薄暗い本堂へと入り、気を引き締めて四国八十八箇所霊場最後の読経を始める。これまで幾度となく唱え、抑揚の付け方も堂に入った感のある般若心経。今、改めて唱えているうちに、胸の底がカーッと熱くなってきた。突然の感情の爆発に私は堪えることができず、たちまち双眸から涙が溢れ出た。

 にじむ経典を必死に目で追いながら、震える声を張り上げて読経を続ける。周囲の目をはばかることなく、無我夢中で般若心経を詠唱した。ようやく結願したという歓喜、やり遂げることができたという安堵、そしてこれで最後なのだという寂寥、極めて複雑な感情が渦巻く中、最後の回向を述べて経典を閉じる。

 ……と、その途端に精神が現実へと引き戻され、なんだか急に恥ずかしくなってきた。私は参拝用品を袋にまとめると、人目を避けるようにそそくさと本堂を後にした。


何はともあれ、これにて結願である!

 納経所で最後の朱印を頂き、納経帳も八十八箇所すべてが埋まった。満足して時間を確認するとまだ16時前。寝床を確保するにはいささか早い時間なので、大窪寺の境内をもう少し散策してみることにしよう。


ガラス張りの宝杖堂には大量の金剛杖が奉納されていた

 結願を果たした遍路は、金剛杖を大窪寺に奉納する人が多いようだ。だがしかし、私にとって金剛杖はここまで一緒に歩き続けてきたパートナー。いまさら手放すのは忍びなく、奉納せずに自宅に持ち帰ろうと思う。

 さらに大窪寺をぶらぶらしていると、「奥之院登山口」と記された登山道が境内から伸びていた。女体山へも通じているようなので、前山ダムから「四国のみち」ルートを行く場合には、この登山道を降りてくることになるのだろう。


折角なので奥の院にも行ってみるとこにした


急な山道を登ること約10分、胎蔵峰に到着した


ここで弘法大師空海が求聞持法を修めたという

 まさに険しい山の中にある行場という感じで、なかなかに雰囲気のある霊場である。そこそこの広さがある平場にはお堂も建っており、昔は行者が籠って修行に励んでいた様子がありありと思い浮かぶ。

 空海の伝説地である胎蔵峰を満喫した私は、そろそろ大窪寺へ戻ろうと登山道を下り始めたのだが、そこでひとつの事件が勃発する。


登山道からの眺めが良かったので写真を撮っていたら――


突然、カメラの電源が入らなくなったのである
(以降の写真はiPhoneで撮ったものだ)

 これには本当に驚かされた。これまで正常に動作していた私のカメラが、四国八十八箇所の霊場をすべて周り終えた直後に壊れてしまったのだ。私はオカルトやらなんやらの類は信じないタチなのだが、正直、このタイミングにはちょっと、偶然とは言い難いような何かを感じてしまった。

 カメラが壊れる心当たりは山ほどあるので直接の原因は分からないが(帰宅後に修理に出したところ、内部がサビサビになっており接触不良になっていたのではないかとのこと)、私のぞんざいな扱いの中、むしろよくこれまで持っていてくれたというものである。ありがとう、EOS50D君。

 大窪寺に下りた私は、門前にあるバス停兼東屋に荷物を下ろした。ここもまた、お坊さん遍路の地図に描かれていた野宿ポイントの一つである。17時を回ると周囲のお店が閉まり出し、山間の集落には静けさが訪れる。……と、店員さんらしき男性が近付いてきて「今日はここに泊まるの?」と聞いてきた。私は「はい、そうさせて頂きます」と答える。やはり、ここで宿泊する野宿遍路は多いのだろう。


夕食はおにぎり三個とオレオ、それとニッキ寒天なるものを食べた

 日が完全に落ちてからテントを張り、敷いた寝袋の上で夕食とする。今日歩いてきた道沿いにはお店の類がなかったので、コーラ(まさかの本日6本目である)以外は昨日の夕方に買っておいたものである。記念すべき結願後の夕食としてはいささか質素な感じではあるが、まぁ、それも私らしいというものである。

 ちなみにデザートの「ニッキ寒天」は初めて食べるものであった。“ニッキ”というと強烈な辛さのニッキ水を思い起こさせるが、これはシナモン風味のゼリーみたいな感じでなかなかに美味である。

 さてはて、本日無事結願を果たすことができたわけだが、私の遍路旅もこれでようやく終わり……というワケではなく、まだもう少しだけ続くのだ。

 四国遍路の最大の特徴は、世界で唯一の環状参詣道という点である。環状、すなわち遍路道は途切れずループしているのだ。私はこれまで第1番札所から第88番札所まで歩いてきたが、これだとまだ環は繋がっていないではないか。私をとしては、ぜひともこの環を繋いで終わりにしたい。すなわち明日からは、ここ第88番札所の大窪寺から第1番札所の霊山寺を目指すことにする。