巡礼60日目:ラバナル・デル・カミーノ〜アセボ(16.0km)






 朝起きてベッドルームから出ると、食堂には既に韓国人ご夫妻の姿があった。ご飯を炊こうとしているらしくコンロをカチカチやっているが、どうやらガスが切れているようで火が付かない。私もまたコーヒー用にお湯を沸かしたかったのだが、コンロが使えないのならしょうがない。幸い蛇口からはお湯が出たので、それでコーヒーを淹れて飲んだ。……が、やはり熱湯というワケにはいかず、なんともぬるい朝食となった。

 韓国人ご夫妻は相変わらずコンロと格闘していたが、しばらくするとご主人がどこからともなくスペアのガスボンベを探し出してきて火を付けることに成功した。うーん、昨日のサムゲタンもそうであったが、韓国人の食に対する情熱は並々ならぬものがある。私は食事を終えて出発の準備を整えると、おいしそうにおかゆをすするご夫婦に挨拶をしてアルベルゲを出た。


ラバナルの村を出て早速山道を行く


牛の水飲み場だろうか、巡礼路沿いに泉が設けられていた

 今日はいよいよ標高1530mのイラゴ峠越えである。長らく続いていたメセタの台地とも、この峠を越えればついにお別れだ。ピレネー山脈のレポエデール峠よりも標高の高いイラゴ峠は、私が歩いているこの「フランス人の道」の最高地点である。

 ……とは言うものの、そもそもメセタは標高800〜900mと比較的高地である。本日のスタート地点であるラバナルも、その標高は1150mと既に1000mを越えている。登る山の高さは実質400m足らずである。「ル・ピュイの道」の険しい丘陵地帯や、長々と登りが続くピレネー山脈を越えてきた身としては、さほどの難易度では無い。


しかし、カートを引いて歩く人は大変そうだ


しばらく登ると、フォンセバドン(Foncebadon)という村に着いた


朽ち果てた廃墟の並ぶ、寂しい集落である

 ラバナルを出てから約一時間、9時過ぎにフォンセバドンに到着した。このフォンセバドンは昨日経由してきた集落以上に荒廃した雰囲気が漂る村で、通りに沿って崩壊した家屋がずらずら並び、ほとんど遺跡というべき様相を呈していた。かつては完全なる廃村だったらしいが、巡礼者が増えた事でバルやアルベルゲが復活したという。

 集落の入口に建つバルからは大音量で音楽が流れていたものの、村自体はひっそり静まり返っており、そのバルの喧噪が逆に虚しさを掻きたてていた。


フォンセバドンを抜けて教会の廃墟を横目に山道を行く


イラゴ峠に立つ「鉄の十字架」と石の山

 緩やかな上り坂を進み、車道に沿って伸びる巡礼路を歩いて行くと、視界の奥に小高く積み上げられた石の山が見えた。その上に立つ木柱の頂上には、鉄製の十字架が括り付けられている。イラゴ峠の「鉄の十字架(Cruz de Ferro)」である。

 十字架を支える石の山は、巡礼者によって築かれたものである。元はローマ帝国時代、この場所は街道の安全を祈願する祭祀の場であったという。その伝統が中世以降のサンティアゴ巡礼者にも受け継がれ、今もなお巡礼者たちは地元から持参した石をここに積む事で道中の安全を願うのだ。

 これまでにも巡礼者が積み上げたいくつもの石積みを巡礼路上で目にしてきたが、これはそれらの親玉的な存在であろう。


十字架の柱にも、何か色々括り付けられている


足元にはメッセージが書かれた石やら何やらが

 置かれている石の材質は様々で、巡礼者が方々から集ってきている事が良く分かる。中にはゴムバンドとかCDといった石以外の物まで置かれていたりするが、まぁ、それぞれ巡礼者の願いが込められているものだろうし、無下にはできないだろう。

 「鉄の十字架」を越えてからは、しばらく車道の脇を行く。尾根沿いの道なので歩くのは楽だが、道の周囲は木々によって囲まれており、景色を臨めないのが残念だ。


尾根沿いは平坦だがやや面白みに欠ける

 さらに進むと、巡礼路は車道を離れてやや急な岩場の道となった。ふと耳を澄ますと、遠くからカランカランという鐘の音が聞こえてくる。さらに進むと、またカランカラン。しばらくの間を置いて、三度カランカラン。なんだろう、この音は。

 坂を下り切ると再び車道と合流し、マンハリン(Manjarin)と記された手作りの看板が目に入った。しかし、これは村……なのだろうか。車道に沿って並ぶのは、廃墟の崩れかけた石壁ばかりである。


マンハリンとあるが、周囲に見えるのは廃墟だけだ


少し進むと、一軒の小屋があった

 訝しげに思いながら歩いて行くと、看板から少し先に進んだ所に一軒の小屋が建っていた。その入口の前には一人のおじいさんが立っており、私の姿を認めるや否や庭先に据えられていた鐘をカランカランと鳴らした。なるほど、先程からしきりに聞こえていた鐘の音は、ここで鳴らされていたものだったのか。

 このマンハリンの歴史は中世にまで遡り、少なくとも11世紀には巡礼者の為の宿泊施設があったようである。20世紀の半ばに廃村となったらしいが、現在は一人のおじいさんとその支援者が小さなアルベルゲを運営している。

 この辺りは山地という事もあって霧が出やすいらしく、そんな日には時折鐘を鳴らしてマンハリンの位置を巡礼者に伝えるのだそうだ。そうでない日でも、巡礼者がマンハリンを通りかかる度に祝福の鐘を鳴らすとの事である。


建物内部はちょっとした売店になっていた

 なかなか面白そうなアルベルゲなのでここに泊まってみたいとも思ったが、明日の予定を考えてスルーする事にした。せっかくなのでスタンプを貰おうと売店にいたお姉さんに「セジョ・プロファボール(スタンプ下さい)」と言ってみると、お姉さんは時計を見ながら「少し待ってね」というような事を私に言った。何だろうと思っていると、先程のおじいさんを始め宿の人たち全員が、続々と庭へ出て行くではないか。

 おじいさんは白い装束に黒い頭巾といった不思議な出で立ちで、恭しくマリア像の前へと歩みを進める。次にマリア像の前に刺さっていた剣を抜き取り、なにやら祈りの言葉を唱え出した。なるほど、礼拝の時間なのだ。


マリア像に祈りを捧げるおじいさん

 このおじいさんは、テンプル騎士団の伝統を今もなお実践する人らしい。宿の人々はおじいさんの周囲に立ち、その様子を無言で見守っている。教会のミサのように洗練されたものではないが、そこには信仰の基本形というか、原点のようなものを感じた。

 おじいさんの礼拝が終わった後、私は無事マンハリンのスタンプを貰う事ができた。それでは出発しようかと建物を出たその矢先、そういえばアストルガのアルベルゲでボランティアをされていたSさんに、一つ頼みごとをされている事を思い出した。

 Sさんは以前の巡礼でこのマンハリンを訪れた際、アルベルゲの庭先に並ぶ各国の旗の中に日の丸が無い事に気付き、代わりにご自分が持っていた「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」の旗を立ててきたそうだ。それがまだ残っているか、見てきてほしいとの事であった。どれどれと立ち並ぶ旗を眺めてみると――


おぉ、あった、「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」の旗

 これには、私もちょっと嬉しくなってしまった。今も変わらず立派にはためく日本の旗。しかも、お世話になった方が巡礼路に残して行った旗、である。ちょっとグッとくるシチュエーションではないか。もちろんSさんにも、旗がバッチリ残っていた事を後日連絡差し上げた。どうやら喜んで頂けたようである。


マンハリンからは眺めの良い道が続く

 マンハリンを出ると、巡礼路は再び車道から反れて山道を行く。巡礼路の周囲は放牧場が広がっていて眺めが良く、周囲の山並みが一望できた。

 特に景色の良い場所には休憩所が設けられていた。小さなベンチが設えられ、その横には無人販売所もあり、バナナやお菓子などちょっとした腹の足しになる品物が並んでいた。料金は「DONATIVO(寄付)」とあるが、どのくらい入れれば良いのかイマイチ分からなかったので私は遠慮しておいた。


独特なセンスの無人販売所

 ベンチに座って休憩を取っていると、首にバンダナを巻いた犬が巡礼路を駆けてきた。おぉ、かわいいなぁと見ていると、続いて自転車に乗ったお姉さんがやってきた。お姉さんは無人販売所の前で自転車を止め、料金箱の鍵を開けてお金を回収する。全ての小銭を袋に移すと、再び自転車に乗って巡礼路を戻って行った。犬は飛び跳ねるようにお姉さんの後を追う。

 まさか無人販売所の管理の為に自転車を山で登ってくる人はいないだろう。あのお姉さんはマンハリンの人で、この無人販売所もマンハリンの管理という事か。なるほど、確かにこの飾り付けのセンス、マンハリンのアルベルゲに通じるものがある。


マンハリンへと戻るお姉さんと犬

 休憩を終えた私は平坦な道をひたすら進み、さらにちょっとした上り坂をえっちらほっちら登ってもう一つの峠を越えた。この峠からは標高590mのモリナセカ(Molinaseca)まで、延々続く下り坂である。しかも、かなり急な坂道だ。

 道の傾斜はキツく、しかも石がゴロゴロ転がっており足場が悪い。このような道では気を抜くとすぐに膝が笑い出してしまう。私はできるだけ慎重に足を運びつつ、坂道を下って行った。


しかし眺めはすこぶる良い


朝方見かけたカートのご夫婦が途中で休憩を取っていた

 歩くのも結構気を遣わなければならない道であるのに、カートとはまた大変そうである。道幅は狭く、路面もガタガタなのにちゃんと転がせるものなのだろうか。逆に勢いが付きすぎて、カートごと転がってしまいそうな感じもする。平地では有用なカートも、山道では苦労倍増。何事も一長一短である。

 さらに坂道を下り、13時過ぎにアセボ(Acebo)という村に到着した。山の尾根に沿って石造の家屋が並ぶ、なかなか良い雰囲気の集落である。


尾根の道に沿って家が連なるアセボ


ここもまた、良い感じの町並みである

 時間的にはまだ少し早く、麓のモリナセカまで一気に行けてしまうような気もするが、実は私は前もって、今日はここまでにすると決めていた。

 モリナセカの先にはポンフェラーダ(Ponferrada)という大きな町があるのだが、私はそこに二泊しようと考えている。今日モリナセカまで行ってしまうと、明日ポンフェラーダに着くのが早すぎてしまうのだ。その事をアストルガでSさんに話した所、ならばアセボで一泊して翌日ポンフェラーダに行くのはどうかと提案された。なんでも、アセボには寄付で宿泊可能なアルベルゲがあるあらしい。


アセボのアルベルゲ

 そのアルベルゲは村の出口近くに鎮座する教会の横にあった。アルベルゲのオープン時間が14時だったので少し待つ必要があったのだが、お陰で受付一番乗りである。最も条件の良い、最奥下段ベッドを確保できた。

 他の人がまだ受付をしている中、素早くシャワールームに駆け込み汗を流す。中庭の洗濯台も独り占めだ。なるほど、これが早い時間にアルベルゲへ入るメリットか。

 しかし、アルベルゲに入る時間が早すぎるのもそれはそれで暇である。特にこのアセボは昨日のラバナル以上に集落の規模が小さく、あっという間に村の見学が終わってしまった。特にやる事も無くぶらぶらしていると、バルがあったのでビールを注文し店先のテーブルで飲む。Wi-Fiが飛んでいたので、iPhoneでネットをして時間を潰した。


村の扉に差し込まれていた植物。魔除けか何かだろうか

 寄付で泊まれる宿は、有難い事に食事を出して頂ける事が多い。ここもまたそうだった。19時半頃に食堂へ降りてみると、ちょう夕食の食器を用意している最中だったので、私もまた他の宿泊者と共に手伝った。


スペインの家庭料理と言えば豆のスープ、らしい

 メニューはサラダと肉入りのレンズ豆スープ、それとデザートのスイカであった。日本ではスイカに塩をかけて食べるのが普通であるが、欧米では馴染みの無い事らしく、私がスイカに塩をかけるのをみんな不思議そうに眺めていた。

 私の前に座っていたドイツ人の青年がそれを真似して塩をかけていたが、パクリと食べて一言、「シーフードみたいだね」との事である。どうやらあまり口に合わなかったようだ。やはりスイカに塩というのは、日本独自の文化らしい。