加賀市加賀東谷

―加賀市加賀東谷―
かがしかがひがしだに

石川県加賀市
重要伝統的建造物群保存地区 2011年選定 約151.8ヘクタール


 石川県の南西端に位置する加賀市は、かつての加賀藩の支藩、大聖寺藩の領土であった。その南東部に広がる山並みは奥山方(おくやまがた)と称され、山地を流れる二本の主要河川のうち、大聖寺川沿いは西谷、動橋川(いぶりばしがわ)沿いは東谷と呼ばれていた。江戸時代にはそれらの谷筋を中心に計21の村が存在し、うち8つの村が大聖寺藩より炭役を命じられ、御用炭の生産を担ってきたという歴史を持つ。現在は災害等による離村、西谷における我谷ダム、九谷ダムの建設によって消滅した集落も少なくないが、そのような中においても東谷には昔ながらの山村集落景観を残す集落が今もなお四つ現存しており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。




大土集落の入口に残る炭焼き小屋

 「加賀東谷」として重伝建に選定されたのは、荒谷(あらだに)、今立(いまだち)、大土(おおづち)、杉水(すぎのみず)の四集落、及びそれらの集落を繋ぐ動橋川と旧道である。いずれの集落も江戸時代より木炭の生産を主要産業とし、昭和前期まで炭焼きを続けてきた。しかし家庭燃料が石油やLPガスに置き換わったことで木炭の需要が減少し、また昭和38年の豪雪などをきっかけに過疎化が急激に進む。最盛期の明治21年(1888年)には四集落に270戸の家があり、人口も1700人を超えていたが、昭和35年には719人、平成22年には67人にまで落ち込んでいる。各集落には明治時代前期から昭和30年代に建てられた伝統家屋が数多く現存するが、現在は空き家も多いという。




赤瓦の屋根に煙出しを持つ主屋が特徴的だ

 東谷の各集落では、地形に合わせて敷かれた道に沿って家屋や蔵などの附属屋が建てられ、その周囲に田畑が拓かれている。近世の頃は、急勾配の茅葺屋根を持つ平屋の主屋が集落内に散在していたというが、明治時代に入ると人口の増加によって家屋が密集して建てられるようになり、主屋も現在のものへと更新された。今に見られる東谷の主屋は切妻造の妻入りで二階建て、加賀地方に多い前広間型の間取りを持つ。屋根は赤褐色の桟瓦で葺き、煙出しを持つものが多く、統一感のある家並みを目にすることができる。各集落にはそれぞれ村社が祀られており、石積みや石仏なども多い。周囲の山林や河川、旧道などと相まって、特徴的な山村集落の景観を形成している。




今立集落のルーツである「新保(しんぼ)の池」

 隣り合うように連なる荒谷と今立は、東谷の中でも特に規模の大きい集落である。なお、今立の中心部には「新保の池」と呼ばれる湧水が存在する。「江沼郡誌」によると、かつて能美郡新保村(現在の小松市新保町)から移り住んできた二人の農夫が、この湧水を使って生活を始めたと書かれており、いわば今立発祥の地といえよう。二つある池のうちより古い右のものは生活用水、左は飲料用水として利用されたと伝わっている。また集落の東端に位置する墓地には「三界墓(さんかいはか)」が立っている。この地では天保8年(1837年)に大飢饉があり、当時の今立村53戸のうち半数近い26戸の村人が餓死した。三界墓はその供養の為、嘉永2年(1849年)に建立されたものだ。




林道の終着点、閉ざされた山の中にある大土集落

 動橋川の最深部、山の斜面にひっそりたたずむのが大土だ。地滑りで形成された狭隘な土地に、主屋や蔵が密集して建っており、その背後には石垣で階段状に整地された棚田が築かれている。集落の最上部には「ししぼ石」と呼ばれる巨岩が転がっているが、これはかつての地滑りにより山から落ちてきたものと考えられる。なお「ししぼ石」という名は、かつて田畑を荒らすイノシシをこの石の場所まで追い払った(この地方の方言で、追うことを「ぼう」という)ことからつけられたという。また大土集落裏手の山には、「斧いらずの森」と呼ばれる原生度の高い森林が残されている。これは雪崩防止の為に昔から伐採を禁じてきたことによるもので、大土の立地の険しさがひしひしと伝わってくる。




杉水集落では陶石の採掘も行われていた

 今立から杉水峠を越えた南側、杉ノ水川沿いに杉水の集落は存在する。現在は10戸にも満たない小集落であるが、その西端には九谷焼の原料となる陶石の採掘場跡が残されている。九谷焼は「五彩」と呼ばれる彩法が特徴的な磁器で、現在は石川県内で広く焼かれているが、その歴史はこのすぐ側の九谷村で良質な陶石が発見されたことに始まった。大聖寺藩の命を受けた藩士の後藤才次郎(ごとうさいじろう)は、明暦元年(1655年)ごろ九谷村に窯を築く。現在、九谷村は廃村となっているが、その窯跡は「九谷磁器窯跡」として国の史跡に指定されている。杉水でいつ頃から陶石の採掘が始まったかは不明であるが、少なくとも戦時中までは地元民により採掘が行われていたと伝わる。

2014年05月訪問




【アクセス】

公共交通機関なし。
加賀市中心部より今立集落まで車で約20分。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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