利根川・渡良瀬川合流域の水場景観

―利根川・渡良瀬川合流域の水場景観―
とねがわ・わたらせがわごうりゅういきのみずばけいかん

群馬県邑楽郡板倉町
重要文化的景観 2011年選定


 群馬県の最東端に位置する板倉町は、利根川と渡良瀬川によって挟まれた、その合流域の水場(低湿地帯)に形成された町である。古来よりこの地では、河川によってもたらされた肥沃な土壌を背景に、稲作や淡水漁業が営まれてきた。一方、それらの河川は生活を豊かにするばかりでなく、幾度と無く氾濫を起こしては、人々に洪水の被害を与えてきた。その洪水はオオミズと呼ばれ、一度このオオミズが起きると、数日は町が冠水していたという。そのような地理的特性の中、この地域の人々は水場を最大限に利用し、またオオミズにも耐え得る生活の工夫を編み出し、水と共生してきた。今でもこの地では、そのような水場によって育まれてきた独自の水場文化を目にする事ができる。




江戸時代に締め切られ、田畑に開発された合の川(古利根川)
かつての川は水路として中央に残り、また両岸には堤防も現存する貴重な川跡である

 板倉町の北境には渡良瀬川が、南境には利根川が、そしてそれらの間には谷田川が、いずれも西から東へと平行して流れ、板倉町を出たその先で合流している。また利根川から谷田川へは、かつて合の川(古利根川)という川が通っており、武蔵国と上野国の境とされていた。このように、大小の河川が入り乱れる板倉町の一帯は特に水害が酷く、その低地部が集落や農地として利用されるようになったのは、館林城に入った榊原康政(さかきばらやすまさ)が、堤防の築造や河川の瀬替えなど、大規模な治水工事を行った中世末期以降の事である。その後の江戸時代にも、河川の廃川化や沼の埋め立てなどによる新田の開発が盛んに行われ、板倉町は一大穀倉地帯に成長した。




主屋より高い位置に築かれた、避難所兼倉庫の水塚(みつか)

 しかしながら、それでもなお堤防の決壊や沼の増水などによるオオミズの被害は後を絶たず、人々はオオミズに対する備えの工夫を編み出してきた。この地域の集落では、河川が作り出した自然堤防上に盛土をして屋敷を建て、さらに敷地の一部に1〜2メートル程度の盛土を施し、水塚(みつか)と呼ばれる小屋を建てている。この水塚は、本二階建ての建物で、オオミズが起きた際にはその一階に食料を備蓄し、二階に家族が避難する、倉庫兼避難所である。それぞれの家に揚舟(あげぶね)も備えており、オオミズ時の行き来を可能としている。また、主屋の周囲や水塚の盛土に木々を植えて屋敷林とする家が多いが、これは防風目的に加え、根によって地盤を固める防水の目的でもある。




川沿いの低地に溝を掘り、土を盛り上げて作られた川田(かわた)

 この地域には、水場ならではの伝統的な農業技術が受け継がれている。その際たるものが、川田(かわた)であろう。川田とは、川や沼の底から取った泥土を、隣接する湿地帯に積んでかさ上げし、造成した堀り上げ田の事である。現在では谷田川沿いにおいて、川と堤防の間の高水敷に溝を掘り、それを盛土して造成した川田を見る事ができる。また、谷田川沿いやその中州には、ヤナギ山と呼ばれるアカメヤナギの高木林が存在する。これはかつて、オオミズ時における川田の畦押さえとして植えられたものが成長して高木化したものだ。水に漬かっても問題無く育つアカメヤナギは、焚き付けの薪として重宝されていた、水場における貴重な燃料資源であったという。




雷電神社の末社、八幡宮・稲荷神社(重要文化財)
二間社なのが珍しく、また室町時代に建立された群馬県最古の建造物でもある

 板倉町の中心部には、関東地方全域、特に利根川の上中流域で信仰を集める雷電神社が鎮座する。祭神は火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)、大雷大神(おおいかづちのおおかみ)、別雷大神(わけいかづちのおおかみ)の三柱。その名の通り雷の神であり、それと共にもたらされる雨や、その治水、稲作に関する神でもある。社伝によると、推古天皇6年(598年)、聖徳太子が沼の小島に祠を設けた事に始まるというが、史料に表れるのは鎌倉時代の永仁6年(1298年)に成立した上野国神明帳が初めてであり、実際の創建は中世初期から中期の頃と考えられている。なお、雷電神社の境内には天文16年(1547年)に建てられた八幡宮・稲荷神社があり、これは群馬県最古の建造物である。




今でも谷田川に架かる沈下橋「通り前橋」

 この雷電神社は中世より賑わい、数多くの参拝者が訪れていた。その参詣道として用いられていたのが、古河往還である。古河往還は日光例幣使街道の宿場である太田宿から、館林、板倉を経て、日光街道の宿場である古河宿へと至る道で、北関東における重要街道の一つであった。また、河川や水路が張り巡らされた板倉において、舟は非常に重要な交通手段である。荷揚げを行う河岸も整備された他、利根川や渡良瀬川には渡し舟も数多く、また舟を並べた舟橋や、川が増水しても流されないように欄干を省いた沈下橋も存在していたという。現在、それらのほとんどは現代の橋に取って代わられたが、谷田川には今もなお、「通り前橋」「北坪東橋」の二つの沈下橋が現存している。

2011年07月訪問




【アクセス】

東武鉄道日光線「板倉東洋大前駅」より徒歩約15分(範囲が広大な為、レンタサイクルが便利)。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

【関連記事】

近江八幡の水郷(重要文化的景観)
四万十川流域の文化的景観 下流域の生業と流通・往来(重文景)
四万十川流域の文化的景観 中流域の農山村と流通・往来(重文景)
四万十川流域の文化的景観 上流域の農山村と流通・往来(重文景)