菅浦の湖岸集落景観

―菅浦の湖岸集落景観―
すがうらのこがんしゅうらくけいかん

滋賀県長浜市
重要文化的景観 2014年選定


 琵琶湖最北端の奥琵琶湖に突き出た葛籠尾崎(つづらおざき)。その西岸に位置する入江のわずかな土地に菅浦という集落が存在する。険しい地形によって周辺地域と隔絶された菅浦はまさに陸の孤島というべき場所であり、昭和41年(1966年)に道路が開通するまでは舟でしか行き来することができなかった。菅浦には現在も湖と山によって育まれた湖岸の集落景観が良好な状態で維持されており、また中世の自治形態である“惣(そう)”の伝統が今もなお受け継がれている貴重な集落であることから、周辺の山林や湖面域を含む集落の全域、および山を隔てた北側に広がる日指(ひさし)・諸河(もろこ)地区の田畑を含む計1568.4ヘクタールが国の重要文化的景観に選定されている。




菅浦では敷地の奥に主屋を建て、前庭に附属屋を築くのが一般的だ
かつて屋根は葦(ヨシ)葺が主だったが、昭和40年代頃より桟瓦葺に移行した

 菅域地域の歴史は古く、奈良時代には既に湖上交通の拠点として湊が設けられていた。平安時代の長久2年(1041年)には隣村の大浦と共に園城寺円満院の荘園「大浦荘」に組み込まれたものの、その後に菅浦は延暦寺檀那院の末寺であった竹生島(現在の宝厳寺および都久夫須麻神社)に寄進され竹生島領となった。鎌倉時代の永仁3年(1295年)になると、日指・諸河の田畑を巡って大浦と対立。この領有権争いは約150年もの長きに渡り、その間に菅浦の住民たちは結束を固め、強固な自治組織である“惣”を作り上げていった。現在も菅浦には集落自治の決定権を持つ「長老衆」という役職が置かれており、中世からの自治組織が緩やかに変容しつつも今にまで受け継がれている。




菅浦集落の境界を示す「四足門」のひとつ「西門」

 菅浦の集落は長福寺跡(現在の菅浦公民館)を境に西村と東村の二地区に分けられている。西村は湧水を生活用水として利用していたのに対し、東村は谷水を引き込んで利用するなど、両地区は水利の形態が異なっていた。かつてはそれぞれに「西の川」「東の川」と呼ばれる舟入(舟の繋留場)が存在しており、現在も菅浦の氏神である須賀神社の例祭において氏子が西村と東村に分かれるなど、両地区の区分は今にまで継承されている。なお、西村の西端、および東村の東端には「四足門(しそくもん)」と呼ばれる薬医門が構えられている。これらは「四方門」とも称し、その名の通りかつては集落の出入口にあたる四箇所に設けられ、内と外を区切る結界として機能していた。




波除けの石垣が連なる「ハマミチ」の光景

 険しい山々に囲まれている奥琵琶湖は比較的波風が穏やかであるが、菅浦は南に開けた入江に位置しており、また湖岸から水深が急に落ち込んでいることから波風の影響を受けやすく、台風の際には荒波が押し寄せることもある。そのような水害から集落を守るべく、菅浦では湖岸や「ハマミチ」と呼ばれる路地に沿って波除けの石垣が築かれている。敷地の入口部分は石垣が途切れているものの、浜へと降りる石段と開口部をずらすことで波が敷地内に入り込むのを防いだり、石垣に切った溝に板を落として開口部を塞ぐなど、水害を防ぐための様々な工夫を見ることができる。また石垣は傾斜地に平地を造成するためにも築かれており、特に集落の背面には立派な石垣を持つ社寺が建ち並んでいる。




浜辺には「ウマ」と呼ばれる共同の洗い場が残る

 菅浦における生業は時代と共に変化してきた。中世の頃は廻船や交易、漁業などを行っていたが、近世には薪の採集や実から油を絞る油桐(アブラギリ)の栽培など、陸仕事の割合が増えている。菜種油が主流となった江戸時代後期には油桐の代わりに養蚕や煙草栽培を行うようになり、また明治時代にはハッサクや梅などの栽培が始められている。昭和30年代にはヤンマーの家庭工場が設けられ、現在も10軒でエンジンの部品などの製造が行われている。昭和54年(1979年)には漁港が築かれたものの、エリ漁やオイサデ漁といった伝統漁業も続けられており、また湖岸の浜辺には「ウマ」と呼ばれる一枚板を渡した共同の洗い場が設けられるなど、湖岸集落ならではの生活が営まれてきた。




淳仁(じゅんにん)天皇が祀られている須賀神社
手水舎より先は土足禁止である

 集落の裏手には須賀神社が鎮座する。かつては保良神社と呼ばれていたが、明治43年(1910年)に小林神社と赤崎神社を合祀した際に改名された。祭神は「大山咋神(おおやまくいのかみ)」、「大山祇神(おおやまつみのかみ)」、そして「淳仁天皇」の三柱である。一般的に、淳仁天皇は天平宝字8年(764年)の「恵美押勝の乱」において淡路島へ流されたというが、菅浦では淳仁天皇はこの地に隠遁したと伝わっており、社殿の背後には淳仁天皇の墳墓であるとされる船型御陵が残されている。また須賀神社には鎌倉時代から江戸時代までの集落の動向を記した『菅浦文書(国宝)』が伝来しており、菅浦は惣を中心とする共同体のあり方が明らかとなった集落として極めて稀有な存在である。

2014年05月訪問




【アクセス】

JR湖西線「永原駅」よりで近江鉄道バス「菅浦線」で約20分、「菅浦バス停」下車すぐ。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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【参考文献】

・月刊文化財 平成26年9月(612号)
菅浦の湖岸集落景観保存活用計画報告書(PDF)