松江城天守

―松江城天守―
まつえじょうてんしゅ

島根県松江市
国宝 2015年指定


 島根県東部、宍道湖と中海によって挟まれた低地帯に広がる松江市は、江戸時代に松江藩の政庁が置かれていたかつての城下町である。その中心部、亀田山に縄張りを構える松江城の本丸には、今もなお築城当初、慶長16年(1611年)までに建てられた天守が聳えている。全国を見ても天守が現存する城跡は12しかなく、また山陰地方に限ると松江城が唯一と非常に貴重な存在だ。外観は四重、内部五階の地下一階、正面に玄関である付櫓を備えた複合式望楼型の天守であり、黒い下見板張の外観と相まって重厚かつ壮大な構えを見せている。正面に掲げた大きな入母屋破風は、頂上の望楼と同様に桃山時代の様式を継承したもので、近世築城最盛期に建てられた天守の代表例である。




二の丸下段から天守を見る

 松江城を築いたのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に移ってきた堀尾忠氏(ほりおただうじ)である。忠氏は父親の堀尾吉晴(ほりおよしはる)と共に豊臣家三中老として豊臣秀吉に仕えていたが、秀吉の死後は徳川家康に接近、関ヶ原の戦いでは東軍として功を上げ、遠江国浜松12万石から出雲国松江24万石に加増転封となった。吉晴・忠氏親子は歴代領主の居城であった月山富田城に入ったものの、内陸の中世山城であることから不便であった。そこで慶長8年(1603年)、忠氏は江戸幕府の許可を得て松江に新城を築くことにした。城の位置を決める際、吉晴は西の荒隈山を推したものの、それだと城域が大きくなりすぎることから、忠氏は亀田山を推していたという。




黒塗りの板張りに加え、正面の付櫓と入母屋破風が重厚感を増す

 翌年の慶長9年(1604年)、忠氏は27歳の若さで急逝してしまう。忠氏の子である三之助(のちの忠晴)はまだ幼少であったため、後見役として吉晴が政務を担った。築城が始まったのは慶長12年(1607年)、結局は忠氏の遺志を継ぐように、亀田山に築かれることとなった。松江城は5年の歳月を費やし慶長16年(1611年)に完成したものの、吉晴はその直前に死去している。跡を継いだ忠晴は子に恵まれないまま寛永10年(1633年)に没し、以降は若狭国小浜藩から移った京極忠高(きょうごくただたか)の時代を経て、寛永15年(1638年)に信濃国松本藩から松平直政(まつだいらなおまさ)が松江に入り、明治維新に至るまで松平氏による統治が続いた。




天守二階の八箇所に設けられた「石落し」
外側からはどこにあるか分からないよう、工夫された位置にある

 松江城は亀田山の山頂を本丸とし、本丸を取り囲むように二の丸を配し、その南に三の丸を置く、輪郭式と連郭式を組み合わせた複合式の平山城である。亀田山を取り囲む内濠や武家町を取り囲む外濠は宍道湖と繋がっているため、汽水となっている。天守は本丸のほぼ中央、石垣で築かれた天守台の上に南面して建てられている。松江城の石垣は近江国坂本の石工集団である穴太衆(あのうしゅう)が手がけたもので、奥行きの長い石を乱積にした牛蒡積で組まれている。天守台の中にある穴蔵(地階)には深さ24メートルの井戸が設けられており、籠城時においても飲料水を確保できるようになっている。天守内に井戸が存在する城は、現存するものでは松江城が唯一だ。




天守の柱は包板(つつみいた)で覆われたものが多い
鎹(かすがい)や帯鉄(おびてつ)などの金具で留めている

 天守を支える柱は長大なものを使用せず、二階分を貫く通し柱を多用しており、上層の荷重を分散させながら下層に伝える構造となっている。周囲を包板で覆う柱も多く、これは部材のひび割れなどを隠し、体裁を整えるためと考えられている。なお、地階の部材からは堀尾氏の家紋「分銅紋」に「富」と記した刻印が発見されており、二階以下に使用されている部材は月山富田城からの転用と推察される。二階の壁下には、攻め込んできた敵を石や熱湯で攻撃するための「石落し」が設けられているが、これは一層と二層の屋根の間を利用しており、外側からは分からないようになっている。一階には銃で攻撃するための狭間も備えるなど、戦闘を意識した実戦的な天守となっている。




平成13年(2001年)に再建された二の丸の櫓群

 松江城の天守が今に残ったのは、地元の人々の努力による。明治6年(1873年)に公布された廃城令において、松江城の建造物はことごとく売り払われた。天守もまた180円で落札されたという。しかし出東村(出雲村)の豪農である勝部本右衛門(かつべもとうえもん)や元松江藩士の高城権八(たかぎごんぱち)らが立ち上がり、資金を調達して天守を買い戻したのだ。昭和から現在にかけては建造物の復元が進められ、松江城は徐々にかつての姿を取り戻しつつある。2012年には昭和初期より長らく行方不明になっていた祈祷札が発見され、少なくとも慶長16年の正月には天守が築かれていたことが確定した。さらなる研究により新たな価値も見いだされ、国宝に指定されるに至ったのだ。

2008年08月訪問




【アクセス】

JJR山陰本線「松江駅」から「ぐるっと松江レイクラインバス」で約10分「大手前バス停」下車、徒歩約10分。

【拝観情報】

拝観料560円。拝観時間は4月1日〜9月30日が8時30分〜18時30分(受付は18時まで)、10月1日〜3月31日が8時30分〜17時(受付は16時30分まで)。

【関連記事】

姫路城大天守(国宝建造物)
彦根城天守、附櫓及び多聞櫓(国宝建造物)
松本城天守(国宝建造物)
犬山城天守(国宝建造物)