遍路29日目:道の駅 めじかの里土佐清水〜道の駅 ふれあいパーク大月(29.7km)






 目を覚ましてテントから這い出たら、既にお坊さん遍路が朝食のご飯を炊いていた。おはようございますと挨拶を交わし、いそいそとテントを片付ける。お坊さんは固いプラスチックのベンチで荷物を枕に寝ていたようだが、それでも熟睡できたのか相変わらず快活そうな笑顔である。私はテントかつ寝袋ですら疲れが取れない日もあるというのに、これが野宿適性の違いというヤツか。

 とりあえず自販機で缶コーヒーを買って朝食のパンをかじる。雨は昨日より幾分弱まっているようではあるが、それでもまだかなりの勢いを保ったままだ。天気予報によると、もう少し経てば雨が止むとのことなのでそれまで待ちたいところであるが、お坊さんは「これも修行ですので」と早々にカッパを着込んで出発していった。

 ひとりでポツンと道の駅の軒先に立ち、ただただ時間が過ぎるのを待つ。軒先から滴る雨水を見ているうちに、胸の奥底からざらついた何かが湧き上がってきた。このままボーっとしていて良いものかと奇妙な焦燥に苛まれる。「これも修行、か……」 私は意を決すると、菅笠のツバを直して雨降りしきる国道321号線に飛び出した。相変わらず風は強いが、向かい風ではなく追い風なので、背中を押してくれていると考えることにしよう。


道の駅を出発して程なく、竜串の市街地に入った

 竜串といえば、確か地形やサンゴ礁が有名な観光地だった気がする。昨日通りがかった落窪海岸もなかなかの眺めだったし、より名の通った竜串はそれ以上に素晴らしい景観が見られることだろう。せっかくなので立ち寄ってみようと思ったのだが、その町からはあまり活気が感じられない。それは早朝だからという理由だけでもないようで、中心部にはかつてはレストランだったのだろう「竜宮城」という名を掲げたヘンテコなデザインの廃墟があり、より一層の頽廃感を醸していた。

 昭和からそのまま衰退したかのような寂れ具合に若干気分が萎えてしまい、そのまま通り過ぎてしまおうかとも思ったのだが、観光地に来てなにも見ずにスルーするのももったいない話である。とりあえず海岸へと出てみることにした。駐車場を突っ切り、港を横切って遊歩道を進んでいく――が、岩場に出たところで私の足は止まった。


確かに見事な化石漣痕の海岸だが、岩場が濡れていて滑るし波も高い

 この遊歩道の先には、竹の様な節目がある「大竹小竹」や、岩の上にたくさんのカエルがいるように見える「蛙の千匹連」、広々とした「千畳敷」など数多くの見所があるようだ。しかしながら、この雨と波に濡れた岩場では足を滑らせて海に落ちるか波にさらわれるかの未来しか見えないではないか。私は引き返すことにした。

 晴れていれば海岸の散策のみならず、グラスボートでサンゴ礁を眺めたりと観光に興じるのもやぶさかではなかったのだが、この荒れ模様の天気では致し方ない。少々名残惜しいが先へと進むことにしよう。まぁ、多少は見逃したスポットがあった方が、また来ようという動機に繋がるというものである。


見残して、我去りゆく雨の竜串

 竜串の町外れを歩いていくと、ふと見慣れない作物を育てている畑があった。腰ぐらいまでの高さがある植物で、少し縮れた感じのある大きな葉っぱが特徴的だ。これは一体なんなのだろうと首をひねっていると、畑の端に刺さっていた竹竿に「葉たばこ耕作地」と記された札が掲げられていた。


なんと、これはたばこ畑だったのか

 私は以前、岡山県高梁市の吹屋の町並みを見に行ったこと思い出した。帰りのバスには乗客が私ひとりしかなく、運転手さんと色々話をしながら備中高梁駅へと戻っていたのだが、その際に運転手さんが「あれ、なにを育てているのか分かります? たばこの畑なんですよ。珍しいでしょう?」と言っていた。その時の私は「へぇ、そうなんですか」と相槌を打つぐらいで大して気にも留めていなかったのだが、こうして改めて見てみると、なるほど、確かに珍しく、なおかつ特徴的な畑である。

 たばこの栽培は厳しく管理されているようで、竹竿の札には生産者名から畑の面積、植え付け本数まで事細かに記されていた。おそらくはそのような情報の掲示も義務なのだろう。意外な発見に土地柄を感じつつ、青々と茂るたばこの葉を横目に先へと進む。


竜串を出てからは、海岸線沿いの道をひたすら歩いた

 この辺りの区間は浜辺の集落と岬を貫くトンネルの繰り返しである。天気予報の通り雨は止んでくれたものの、吹きつける風は依然として強いままだ。海沿いを行く国道321号線はその影響をモロに受け、幾度となく菅笠が煽られは顎紐がきつく喉に食い込んだ。挙句の果てには結び目がほどけ背後に飛んでいってしまう始末である。くるくると回転しながらアスファルトの路面を転がっていく菅笠を、私は慌てて取りに走った。なんとか回収できたものの、同じように被っていては再び飛ばされることは必至である。これはいかんと10秒ほど熟考して編み出したのが、ほっかむりスタイルだ。


見てくれは悪いが、これなら菅笠も飛ばされない

 これまで私は頭の上に四つ折りのタオルを乗せ、その上に菅笠を被っていた。ただそれだと笠が頭から少し浮いた状態になってしまい、より風の抵抗を受けやすいのだ。タオルをほっかむり状態にして顎で結び、その上に菅笠を被ることでより頭に密着し、なおかつタオルの摩擦により顎紐の抵抗が増し飛ばされにくくなるという完璧な理論である。

 このほっかむりスタイルのお陰で菅笠が飛ばされることはなくなったものの、しかしそれでも風が強いことは変わらない。特に海へせり出した高架橋の部分では、突風が道路を駆け上がってきて欄干から崖下に叩き落とされそうになったくらいだ。


このような高所を行く高架橋では風の予測がつかず危ない

 そのような中、トンネルを歩いている時だけは雨風の影響を全く受けず楽に歩くことができた。むしろトンネルに入ると同時に強風が遮られ、ホッとしたぐらいである。国道なのにも関わらず交通量は極めて少ないので車の恐怖もない。これまで散々トンネルをこき下ろしてきた私であるが、まさかその存在に安堵を覚える日が来ようとは。私は非常に複雑な心中のまま、避難シェルターと化した薄暗い隧道を通り抜けた。

 竜串を出て何度目かのトンネルに差し掛かったその折、ふと左へ反れる細道に目が留まった。きっとトンネルが開削される前に使われていた旧道なのだろう。先程までのトンネル前にも同じような横道があったが、それらは既に廃道と化しており入口のすぐ先で通行止めになっていた。しかしこちらは岬に聳える灯台へと通じているらしく、現在も道路として維持されているようだ。ふむ、灯台とは面白そうだ、見にいってみよう。


太平洋の荒波が打ち付ける叶崎


その先端にたたずむ、小ぶりでかわいらしい叶崎灯台

 この叶崎灯台は100年前の明治44年(1911年)に築かれた歴史ある煉瓦造の灯台で、今もなお現役の灯台として沖を行く船を見守っている。モルタルで白亜に塗られた八角形のフォルムはなかなかに美しく、吹きすさぶ強風に耐える姿は健気である。なかなかどうして良い灯台ではないか。

 また叶埼灯台の背後に聳える高台には神社が祀られており、ちょっとした休憩所が設けられていた。ただし海から吹きつける風があまりにも強く、テントを張る場所としては適していると言えない。もっとも、天気が良い穏やかな日なら話は別なのだろうが。


休憩所には数匹の猫が住みついていた
地元の人がエサをやっているのだろう、痩せてはおらず、毛並みも良い


再び旧道を進んで国道321号線に出る
断崖に架かる橋を渡るものの、相変わらずの強風なので歩くのが怖い


長いトンネルを延々と歩き、小才角(こさいつの)という集落に辿り着いた

 小才角は何の変哲もないひなびた漁村という雰囲気であるが、集落の出口にはサンゴを抱えた少女の銅像が立っていて目を引いた。なんでも、この集落は「土佐サンゴ発祥の地」とのことである。


かつてはサンゴ漁が盛んだったようだ

 この近隣の海底には宝石サンゴが生育しており、漁師がたまたま釣り上げたことで江戸時代からその存在が知られていたという。土佐藩は宝石サンゴの採取を厳重に禁止し、箝口令まで敷いていたとのことで、小才角には宝石サンゴの存在を口に出してはならないことを戒めるためのわらべ唄が伝えられている。

 しかし明治時代に入ると禁漁が解かれ、明治6年(1873年)より宝石サンゴの採集が行われるようになった。サンゴ漁は明治20年代にピークを迎えたものの、乱獲によって瞬く間に数が減少。あえなく終焉を迎えたのであった。

 一般的なサンゴのイメージといえばサンゴ礁であるが、サンゴ礁を形成する造礁サンゴは浅い海に生育しており成長速度も比較的早い。一方で赤やピンクに美しく輝く宝石サンゴは数百メートルから千メートルの深海に生育しており、成長速度は一年に2〜6mmと極めて遅い。長い年月を積み重ねて成長した宝石サンゴも、失われるのは一瞬だ。

 在りし日のサンゴバブルに思いを馳せつつ、引き続き海岸の車道を歩いていく。小才角を出てから30分程で、次なる集落である大浦へとたどり着いた。時間は正午少し前。集落内には遍路小屋が設けられていたので昼食休憩とする。この大浦集落からは未舗装路を歩くようなので、ここで力をつけておかなければ。


遍路道は大浦集落背後の墓地から山へと続いている

 竜串から海岸沿いを続いてきた国道321号線は、大浦集落の手前で進路を北に変えて内陸の丘陵地帯へと入っていく。一方で遍路道はこのまま西へと進み、「月山神社」へと向かう。この「月山神社」は明治初年の神仏分離令で神社に改められる前は「守月山南照寺」と称され、足摺岬から西岸を行く遍路が必ず立ち寄る番外霊場であった。

 ちなみに足摺岬から東岸を打ち戻るルートを選んだ場合には、第39番札所の延光寺を参拝した後に伊予国の「篠山観世音寺(現在の篠山神社)」へ詣でることになっていた。月山か篠山か、遍路はそのどちらかを参拝することを不文律としてきたのである。というワケで、私も先人に倣って月山神社へと参るのだ。


月山神社へ至る遍路道には、一丁(200m)ごとに丁石が置かれている


墓地から山に入ると、苔むした石垣が連なる未舗装路が続いていた

 大浦集落から始まるこの遍路道は、石垣や丁石といった古いモノが随所に残されていてなかなかの雰囲気だ。途中には車の轍が見られる農道が入り組んでいる箇所もあるのだが、こまめに道標が設置されているので行き先が分からなくなることはない。一見ただの石ころに見える丁石にもひとつひとつ看板が添えられており、地元の人々が積極的に遍路道を維持していこうという気概が感じられる。うん、良い古道である。


最初こそ急だったが、ある程度上ると平坦な歩きやすい道となった


ビワ畑を横切り農道を進んでいく


立派な道標に従い、再び細い山道へと入る


ちょっとした沢を渡ってさらに歩き――


坂道を下っていくと舗装された車道に出た

 未舗装路の区間が終わってからは、そのまま鬱蒼とした木々が茂る車道を道なりに進んでいく。やがて道路が大きく右にカーブしたかと思うと、その先に小さな朱色の鳥居が見えた。大浦集落から歩くこと約1時間、月山神社に到着である。


思っていたよりこぢんまりとした神社だ

 昔から名の知られてきた番外霊場とのことなので、札所ほどではないにせよそれなりに広い境内を持つ神社なのかと想像していたのだが、実際の月山神社はカーブする車道沿いのわずかな土地に社殿と大師堂それと社務所が密集して建つ、お世辞も大きいとは言えない神社であった。

 境内の隣には、この霊場を代々守ってきた家系なのだろう、「月守」という表札を掲げたお宅が一軒だけ存在するが、それ以外に民家は皆無である。遍路の姿は私以外になく、それどころかそもそも人の気配すら感じられない。実にうら寂しい雰囲気だ。これもやはり、廃仏毀釈の影響なのだろうか。

 月山神社の縁起は、飛鳥時代に役小角(えんのおずぬ)がこの山中で三日月形の石を発見し、月夜見尊を祀ったことに始まるという。その後の平安時代に弘法大師空海が訪れ、石の前で二十三夜月(下弦の半月)待ちの供養を行ったという。

 天正17年(1589年)の「長宗我部地検帳」によると、この地には「月守庵領」「月宮殿」「ツキ石ノ谷」などの表記が見られ、また江戸時代中期の元禄年間(1688〜1704年)に寂本(じゃくほん)という僧侶が記した「四国遍霊場記」にも、ご神体である「月石」の下に鎮座する大師堂と、少し離れたところに建つ寺院の様子が描かれている。


社殿背後の岩山に鎮座するご神体「月石」

 なんでも、この月石は元々媛の井(現在の大月町姫ノ井)にあったのだが、とある化人によってこの場所へと移されたという。すると月石は次第に大きくなり、これは霊験があると人々が祈願したところ、すべての願いが叶ったという。また、かつて月石があった媛の井の人々は精進しなくても参拝して良いのだが、よそ者が精進せずに参拝すると必ず悪いことが起こるという。

 なるほど、よそ者である私が月山神社にお参りするには、どうやら精進とやらをしなければならないらしい。私が行ってきた精進となると、せいぜいここまで遍路道を歩き続けてきたことぐらいであるが、果たしてそれを精進とみなしてくれるだろうか。

 まぁ、悪いことが起きたら起きたでその時だ。とりあえずお参りを済ませ、納め札を入れるために大師堂の前にあった箱を開ける。……と、その一番上には真新しい札が納められていた。もしやと思い拝見すると、やはりそれは道の駅で一緒になったお坊さん遍路の納め札である。彼もまた、私より一足先に月山神社へ辿り着いていたのだ。悪いことが起きるどころか、同じ道を歩いている同志が確実にいることを教えてくれた。これもまた月石の霊験なのだろうか。私は今一度月石を見上げてから、月山神社を後にした。


月山神社からしばらく車道を行くと、左手に未舗路が続いていた


今度は海岸へと降りる遍路道である


九十九折の険しい坂道を下り切ると、赤泊の浜に出た

 大小の石が散乱する浜辺を、じゃらじゃらと足音を響かせながら歩く。非常に静かな場所ではあるが、こうも石だらけだとテントを張るのは難しそうだ。もっともまだ15時前だし、寝床を探すにしては早い時間である。まだまだ先へと進むとしよう。

 赤泊の浜を出て、アスファルト舗装の車道を北へと向かう。山に囲まれた谷間の細い土地には、竜串の外れで見たのと同じたばこ畑が広がっていた。緑の濃いたばこの葉に埋もれるように、おじさんとおばさんが働いている。


どうやらたばこの葉を収穫しているようだ


道路脇のトラックには、収穫されたばかりの葉が積まれていた

 このように収穫されたたばこの葉は、乾燥したのちにJTへと出荷されて紙巻きたばことなるのだろう。日本には安土桃山時代前後にポルトガルから伝来し、江戸時代には庶民の嗜好品として定着したたばこ。現在は健康意識の向上によって喫煙者は減少し、耕作面積も年々減りつつあるのだろう。とはいえ、このように手作業で葉を刈り取っている、実にのんびりとしたたばこ畑の風景が失われてしまうのは少し寂しいことでもある。


たばこ畑の奥へと進み、赤泊の集落を抜ける


集落の家で飼われているのだろう、愛想の良い犬が見送ってくれた
あるいは私を不審者として警戒し、見張っているのかもしれない

 谷筋の細い舗装路を進んでいくと、やがて二車線の車道と合流した。そのまま道なりにてくてくと歩き、ふと山が途切れて畑の広がる土地に出た。かつて月石があったと伝わる姫ノ井の集落に到着だ。


遍路道は姫ノ井で再び国道321号線と合流する

 姫ノ井にはデイリーヤマザキの看板があり、心許なくなった食料をようやく調達できると喜んだのも束の間、そのお店は潰れており廃墟であった。さらに追い打ちをかけるように、雨が再び降り出してくる。まったく、国道321号線に入った途端に雨が降り出すとは。やっぱりサニーロードじゃなく、レイニーロードじゃないか。

 時間は既に16時を回り、そろそろ寝床の確保を視野に入れたい頃合いだ。遍路地図を確認すると、どうやらもう少し先に道の駅があるらしい。丘陵地帯を切り拓いて整備された国道321号線は風景的にあまり面白味がなく、私は少し早目の足取りで道の駅を目指して突き進む。約1時間程歩いたところで右手の視界が開け、道の駅が姿を現した。


17時過ぎ、大月町の道の駅に到着である

 この道の駅にも遍路小屋が設けられてはいるものの、それは駐車場の入口というかなり目立つ場所にある。小屋自体も小さくて軒が浅いので、雨風が強まったらテントがびしょ濡れになってしまうだろう。道路にも近く、騒音にも悩まされそうだ。どうにも宿泊には適さない環境である。さらに2〜3km先の弘見というところにも遍路小屋があるようなのでそちらにしようかとも思ったが、ここより町中のようなので宿泊できるかは賭けである。

 諸々を考慮した結果、この道の駅のアーケード下にテントを張らせて頂くことにした。売店は既に閉まっているようなので、できるだけ迷惑にならなそうな場所を選んで幕営する。今日はお店に立ち寄れなかったので、夕食は土佐清水のスーパーで買ったレーズンパンとカロリーメイト、それとオレオだけだ。わびしい食事を取りつつ、iPhoneで明日の天気を確認する。遅い回線を待ってようやく表示された天気図には、四国へと接近しつつある大型台風の姿があった。